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五輪前日に重傷「滑れていることが信じられない」…実父が明かす“スケボー金メダル候補”西村碧莉に何があった?
text by
吉田佳央Yoshio Yoshida
photograph byGetty Images
posted2021/08/03 17:00
女子ストリートにおいて「金メダル有力」と言われていた日本女子のエース・西村碧莉
ただこの世界はもちろん結果が全て。ケガをしてしまったのは調整の仕方も含め実力不足と見られても仕方がない。彼女が自らこのケガのことを語るはずもないが、例え勝てなかったとしても、並外れた精神力で闘志あふれる姿を見せ、後輩達に自らの背中で語って見せたことで、日本人メダリストが生まれた事実は変わらない。
彼女のことを10年以上見続け、幾多の壁を乗り越えてきたのを知っている筆者にはそう思えてならないのである。
20歳にして「女子スケボー界の第一人者」
では、なぜ彼女はこれほどにまで後輩達から尊敬を集めるのだろう。
それは冒頭でも少しお伝えしたように、彼女が日本におけるガールズシーンを確立した立役者と言っても過言ではないからだ。彼女の幼少期を父の哲雄さんはこう振り返る。
「小さい頃から運動神経が特別良いわけではありませんでした。でも高いところを見つければ上がっていくし、木を見つければよじ登って行く、階段があれば何段目から跳んだよと嬉しそうに話す。男の子でも危険でやらなそうなことを平気でやっていましたね」
その後本格的にスケートボードを始めた彼女は、時が経つにつれて徐々に頭角を表すようになっていくのだが、筆者も昔の彼女のことは鮮明に覚えている。スケートボードの大会にガールズクラスがなかった(今でも確立はされていないが)当時、男の世界に堂々と乗り込んで参戦していた。
「AJSA(日本スケートボード協会)など国内の大会もそうなのですが、中学2年生を過ぎたあたりからは海外にも行くようになって、そこでTAMPA AMやPHX AM、DAMN AMといった名の知れたコンテストにも出場するようになりました。ただどれもガールズクラスはなかったんです。当時は常に出場150人中女の子は1~2人という感じでした」
体格はもちろん、基礎的な身体能力も違う男子選手と戦わなければいけない。普通に考えて彼女は負けて当然だ。それでも彼女は「予選だけは通りたい」と、果敢にチャレンジし続けた。
哲雄さん自身も流石に無理だろうと思っていたそうだが、まだ中学生の段階でアメリカへ渡り、アマチュアの大会に男子と混じって出場していた経験は、スキルはもちろんメンタルの面でも本当に大きかったと話している。
「コーチや指導者は存在しない」世界でなぜ強くなれた?
ガールズシーンがないなかで、西村が第一線で戦い続けられた裏には、姉である詞音(ことね)の存在もあった。まさに理想のアスリート姉妹だろう。筆者は彼女たち姉妹とは何度か撮影を共にしたことがあるのだが、いつも姉の存在が妹の碧莉にとってプラスに働いていると思うことばかりだった。