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選手村のある埋立地「晴海」、(タワマン以外に)何がある? 鉄道駅がないのにナゾの“廃線”を見つけた話《東京五輪》
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2021/07/22 17:02
東京・晴海の選手村。晴海には選手村・タワマン以外に何があるのか?
じつはこの鉄橋の鉄道、東京都港湾局専用線の廃線跡である。1957年に開通し、1989年に廃止された東京都港湾局晴海線。人を載せて運ぶのではなく、貨物専用の鉄道だった。線路の先には豊洲からさらに運河を渡って越中島貨物駅までつながっていた。そしてこの廃線が、晴海という島の歴史を今に留める貴重な遺産なのだ。
90年前にできた「月島4号地」=晴海
ここで晴海が誕生するより前、明治時代に時を戻そう。明治時代になると、東京湾にも大型の船が盛んにやってくるようになる。大型の船が入港するためには、港はある程度深くなくてはならない。ところが、東京湾は隅田川の河口部に土砂がたっぷりと堆積していて、つまりは遠浅の海だった。それでは近代港湾としては役に立たない。
そこで隅田川河口の改良工事が行われる。いわゆる澪浚(みおさらえ)、堆積土砂を浚って東京湾を深く掘り下げようという工事だ。そうするとたくさんの土砂が出る。その土砂を使って、次々と埋立人工島が作られた。そのひとつが月島であり、豊洲であり、この晴海なのだ。
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いちばん最初に誕生したのが月島で、1892年に完成。“一号埋立地”である。次いで勝どきや新佃島が完成、1931年になって「月島4号地」として生まれたのが晴海である。ここから令和の選手村・晴海に続く、波乱の歴史がはじまった。それはもう、波乱という言葉では言い尽くせぬほどに、過酷極まる歴史であった。
戦前の消えた“2大プロジェクト”
晴海にとっての最初の大きな出来事は1933年に起こる。当時の東京市が新市庁舎の移転先を晴海に決定したのだ。実際、1934年には設計コンペまで行われ、具体的な計画も進んでいる。しかし、この移転計画は頓挫する。海の物とも山の物ともつかぬ(というか埋立地だから海の物)の埋立地に市庁舎を建てることへの抵抗が大きかったようだ。もしもこのとき、市庁舎が晴海にできていたら今の東京都庁も晴海にあったのかもしれない。そうすれば新宿副都心もどうなっていたのやら。歴史の歯車はほんの小さなできごとで大きく狂う。