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選手村のある埋立地「晴海」、(タワマン以外に)何がある? 鉄道駅がないのにナゾの“廃線”を見つけた話《東京五輪》
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2021/07/22 17:02
東京・晴海の選手村。晴海には選手村・タワマン以外に何があるのか?
晴海の命運を狂わせた事件はまだあった。1940年に開催を予定していた紀元2600年記念日本万国博覧会である。晴海はこの万博の会場として白羽の矢が立った。1936年には、東京が1940年オリンピック大会の開催地に決まる(オリンピックのメイン会場には当初辰巳が候補になっていたという)。2600年の歴史を持つ皇国の力を世界に発信する万博とオリンピック。これが実現していれば、また晴海も違った存在になっていただろう。
ところがここでは戦争が立ちはだかった。日中戦争は泥沼化、日米関係も悪化の一途をたどる中では万博やオリンピックどころではなくどちらも中止・返上。そうして結局、戦争が終わるまで晴海はほとんど手つかずのままになってしまった。
「工業地帯」晴海が「タワマンの街」になるまで
ようやく戦後、1950年代以降に晴海の本格的な開発がはじまる。今でこそ、晴海や豊洲はすっかりタワーマンションの聳え立つ街になっているが、最初は“工業地帯”としての開発だった。1952~1965年にかけて15のバース(船が停泊する岸)を持つ巨大な晴海埠頭が建設され、水産物や麦、砂糖、材木、そしてセメントなどが陸上げされていたという。かつては東京で消費される果物や小麦のほとんどが晴海から運ばれたほどだ。
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ちなみに、豊洲には戦前から東京石川島造船所(現在のIHI)が進出、豊洲市場になっている場所は東京ガスの工場があったし、火力発電所も豊洲にあった。晴海と豊洲は、双子のようにして工業国日本を支えたのである。
そしてこうした貨物の輸送のために1957年に建設されたのが先ほどの線路=東京都港湾局専用線だ。晴海だけでなく豊洲を含めあちこちに線路を伸ばしていた。いまのパークタワー晴海あたりには機関区があって、選手村のあたりにまで運河沿いに(つまり埠頭沿いに)線路が伸びていた。いまでもまだ倉庫などが残っていて、晴海が大埠頭の島だった痕跡が見られる。
ほぼ同時期にはかつて東京市庁舎や万博会場になるはずだった場所に、晴海団地が建設された。いちばん高い15号館は10階建て。いまでは大したことがないが、当時にすれば高層であり、公団住宅の高層化への試金石だったという。
埠頭がほぼほぼ完成した1955年には、もうひとつ晴海の名を轟かせるできごとがあった。日本国際見本市の開催である。その会場はのちに東京国際見本市会場(晴海見本市会場)となって常設化。東京モーターショーなどいまや定番化した大規模イベントが継続的に開かれるようになった。1981年にはコミックマーケットも開催されている。
こうして晴海は巨大埠頭と高層団地、そして見本市の開催地として知られるようになった。人が乗る鉄道は通らなかったが、そもそも豊洲や月島に鉄道が通ったのもだいぶ後のことだから、それは別にハンデではなかった。それに、東京都港湾局専用線という立派な貨物専用線が通っている。
2016年東京五輪の幻のメインスタジアム
しかし、昭和から平成に移り変わる頃になると再び状況が変わる。