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「最後のダービー」よりも「馬の将来」を 藤沢師がニューマーケットから日本に持ち込んだ“当たり前のこと”
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySatoshi Hiramatsu
posted2021/06/17 06:00
イギリスでのスピルバーグ。日本一のトレーナー、藤沢和雄師はニューマーケットで馬を学んでいた
調教師として周囲の雑音に屈しなかった
半ば冗談のようにそう語るが、これはある意味、芯をくった発言でもあるのだろう。日本語などまるで通じないニューマーケットで、藤沢青年は馬と対面し続けた。話しかけながら過ごし続けた。その歳月は実に4年。ただでさえ鋭い感性の持ち主である彼が、4年間も馬と、馬だけと過ごしていたのである。学ぶことが実に多かったであろうことは、容易に察しがつく。
こうして充実した時間を過ごした後、帰国し、JRA入りをした。1987年に調教師免許を取得。開業後は、様々な改革を行ってきた。ほんの一例として有名なのは「集団調教」や「馬なり調教」と呼ばれる調教法だ。どちらも読んで字のごとく。集団調教は複数頭の馬を同時に馬場へ入れる調教法であり、馬なり調教は一杯に追ったり、鞭で叩いたりすることなく、馬の気に任せて走らせる調教法である。
これらを最初に始めた頃は「集団で馬場に入れるなんて邪魔だし危険だ」とか「馬なり調教では仕上がらない」など、外野がかまびすしくなったものだ。しかし、そんな雑音に屈することなく、若き藤沢和雄調教師は自分の信念を貫き通した。その結果、厩舎の成績は右肩上がり。ついにはリーディングの座は指定席となり、駿馬の梁山泊とも言える状態になると、多くの厩舎がその方法を真似るようになった。
現在ではそれらの調教法はスタンダードと言ってよく、直接、間接を問わず多くの厩舎が藤沢厩舎のやり方の影響を受けているといっても過言ではないだろう。
「自分としては“当たり前”の事をやっていただけ」
しかし、伯楽自身は「何も特別な改革をしてやろうと思った事はない」と言う。
「自分はJRAに入るより前にイギリスへ渡りニューマーケットで過ごしました。だから、向こうのやり方が当たり前だと思っていました。日本流のやり方を知らなかったので、開業後、自分としては“当たり前”の事をやっていただけのつもりでした」
先に挙げた「集団調教」や「馬なり調教」だけでなく、曳き運動の強化に午後運動の撤廃、飼い葉の改良や寝藁を麦稈に変更するなど、彼が取り入れた仕様は枚挙にいとまがない。それらが“改革”と呼ばれたわけだが、本人に言わせると「全てニューマーケットでは当たり前の事」だったのである。