日本サッカー未解明問題ファイル「キリスト教と神のこと」BACK NUMBER
「ボールをよこせ」は日本人っぽくない? 長友佑都と本田圭佑の「主張」論とヨーロッパでの感覚の違いとは
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byKiichi Matsumoto/JMPA
posted2021/06/16 17:02
長友佑都の「主張」には長年ヨーロッパでやってきたからこその含蓄がある
あの文化ギャップは何だったのか。帰国後、関連書籍を読み漁るなかでこういった一文を見つけた。日本文化会議編『西欧の正義 日本の正義』(文藝春秋・2015年)の東京大学の西洋史専門家・木村尚三郎先生のコメントだ。
「(キリスト教のような)一神教というものを支えている根底には、人間に対する根本的な不信感があるように思うのです。(中略)ヨーロッパの場合はともかく自分の身体、生命、財産を自分で守るという自己防衛の本能が大変強くて、いつも剣を持っている感じですね。(中略)人間と人間は信頼しあいたいのだけど、やむをえず自分を守るために相手を傷つけないといけない場合がある」
個人それぞれが神と繋がっている。その分、個人同士の関係はシビア。日本のように儒教の影響のある社会での「横のつながり」が強い思考回路とは違う。
パブリックとプライベートの厳しい線引き
筆者はドイツでのプレー経験を通じ、「パブリックとプライベートの厳しい線引き」も感じた。
「Number」でのチャレンジ連載企画だったゆえ、チームの監督に時折コメントを求めた。しかし度々断られた。「試合の日、10分だけ早く集合してもらってクラブについて簡単に話を聞けないか」「ドイツのクラブ文化を伝えたい」とお願いした。しかしあっさりと「私がクラブのために使える時間はもう決まっている」と言う。
シーズン後のパーティーでも、「1年を振り返って」といった話を手短に聞こうとしたが、「今は家族といるから」と一言も話してくれない。日本だったら「まあ、あいつもせっかく遠くから来ただろうし」と「情」もかけてくれそうだが、それは一切なかった。
神と繋がった尊厳ある個人の集合体は、厳しい。その厳しいパブリックに立ち向かうには、厳しい姿勢で望まなくてはならない。神が自分の上にいて、繋がっている。日本ではなかなか実感が沸かない感覚でもあるのではないか。なにせ、目に見えない。だからこそ、その違いは未解明だったのだ。
そしてそもそも「主張する」ということの考え方から違う。前出の『西欧の正義 日本の正義』では「可能な限りトラブルなしに自分の身体、生命、財産を守るにはどうしたらいいか」について、こうも綴られていた。
「それには自分の心を態度で積極的に表し、形式において信頼し合う関係を形づくる以外にない。そうしなければ、社会的緊張関係のなかでは自らの社会的信用を失い、自分で自分を滅ぼしてしまうかもしれない」
キツい。しかしヨーロッパでは主張によって崩壊することなく、高度な社会、文化、そして強いサッカーチームが作られてきた。
それはどういうことなのか。
<次回に続く>