日本サッカー未解明問題ファイル「キリスト教と神のこと」BACK NUMBER
「ボールをよこせ」は日本人っぽくない? 長友佑都と本田圭佑の「主張」論とヨーロッパでの感覚の違いとは
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byKiichi Matsumoto/JMPA
posted2021/06/16 17:02
長友佑都の「主張」には長年ヨーロッパでやってきたからこその含蓄がある
2020年秋、イングランド・トッテナムでの「大立ち回り」を目にした方も多いのではないか。ハーフタイムのロッカールームでGKウーゴ・ロリスが「守備を怠った」としてFWソン・フンミンに激怒。渡欧歴10年を超えるソンもこれに激しく応戦した。日本の感覚でいうとはっきり言って喧嘩。しかし、当時のジョゼ・モウリーニョ監督は「美しいこと」と言った。
日本の感覚とすれば「めちゃくちゃ」ではないか。主張して喧嘩するよりも、我慢して穏やかに振る舞ったほうが「美しい」。
言えるか、言えないか。はっきり言ってこれ、プレー以前の問題だ。そして「言える人たち」がサッカーの世界では圧倒的な結果を残してきた。
その背景をキリスト教に求めてみよう。なぜならこれまでW杯は90年で計21回の大会が行われたが、ベスト4以上に入った国の99.97%がキリスト教国なのだ(1966年大会のソ連も広義のキリスト教国にカウント)。
本田圭佑に話を聞いた時のこと
なぜ彼らが「言えるのか」。
この背景については、この連載でこれまでも説明してきた。
キリスト教圏での「個人」の意味が、日本とは違うからだ。
「神と繋がっている尊厳のある存在」(ドイツ中世史の専門家・阿部謹也先生による『「世間」とは何か』より)。
それぞれが神と繋がっているから、個が確立されており、”人間同士”はフラット。これは「共同体での習わしを年輩者から学んできた」儒教の影響のある日本とは違う。
筆者自身が05-06シーズンにドイツ10部でプレーした限りではこの影響を「先輩・後輩の関係がほぼない」点に感じた。主張どころか、ユースチームで10歳の子が12歳の子を蹴っ飛ばして泣かす姿も見た。
もう1つ、記したい点がある。
「欧州キリスト教社会は、そもそも人間関係が厳しい」
08年、「週刊プレイボーイ」のインタビューで本田圭佑に話を聞いたことがある。オランダへの移籍当初をこう語っていた。
「練習から、毎日が戦いでした。チームメイトとの戦い。喧嘩まがいのファウル。言われたら言い返す。そうでもなければ自分の存在が否定された」
主張しなければ、存在が消える。奇しくも長友と同じだった。筆者自身もドイツ10部でベンチ外となった際、私服を着て応援に出かけていたら、チームメイトのGKに言われた。
「そんなことしてたら、その立場に納得していると思われる」
比較することがおこがましいことはよく分かっている。ちなみにこの話を本田にしたら、「10部でサブですか?」とちょっと笑われた。身をもって欧州リーグを経験した甲斐があった。余談だが。