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「俺、続けられないかもしれないな」 山縣亮太が日本新記録を出すまでに味わった故障と“取り残される”苦しみ 

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折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

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photograph byKiichi Matsumoto

posted2021/06/12 11:01

「俺、続けられないかもしれないな」 山縣亮太が日本新記録を出すまでに味わった故障と“取り残される”苦しみ<Number Web> photograph by Kiichi Matsumoto

布勢スプリントで9秒95の日本新記録を出した山縣亮太。9秒台へたどり着くまでの道のりは長かった

追い風0.2mで10秒00、9秒台はすぐそこだったが…

 そんな中で9秒台の先陣を切ったのは、17年9月の桐生の9秒98だった。だがその15日後の全日本実業団で山縣が出した10秒00には価値があった。桐生の追い風1.8mに対して、山縣は0.2mという条件だった。18年は序盤の走りで背中に力が入りすぎている感じもあったが、アジア大会では準決勝からそれを修正し、決勝では2位のオグノデ(カタール)と同タイムの10秒00で銅メダル獲得(追い風0.8m)と、9秒台突入の条件は完全に満たしていた。

 だが19年はアジア大会を9秒92で制した蘇炳添(中国)の身体を見てパワーアップを目指したが、背中痛に悩まされたうえに6月の日本選手権は肺気胸で欠場した。その後は体作りを見直して体重も少し落としたが、11月に右足首靭帯を断裂。そして20年はひざを痛めて出場したのは8月のセイコーゴールデングランプリのみで、10秒42で予選落ちと苦しんだ。その間、サニブラウンや小池祐貴が9秒台に突入し、取り残される状況になっていた。

「俺、続けられないかもしれないな」

 山縣は「一番つらかったのは、ひざを痛めた今年の冬かもしれませんね。肉離れは待てばいい感じだけど、膝は一度治っても同じ動きをすればまたやってしまって完治しない。だから動きを変えていかなくてはいけないし大改革が必要なので、ちょっと痛みが出た時は『俺、続けられないかもしれないな』みたいなことを思ったりしました」という。

 そんな中で決断したのが、これまではひとりで考えて走りを追求していたスタイルをやめ、コーチをつけることだった。拠点にする慶大で男女単距離を見ながら、100mハードルの寺田明日香などの指導をしていた高野大樹コーチとは、これまでもよく会話を交わしていた。彼の指導法も見ていたこともあり、今年2月にコーチを依頼した。

【次ページ】 高野コーチ「身体感覚が変わってきている」

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