オリンピックPRESSBACK NUMBER
「俺、続けられないかもしれないな」 山縣亮太が日本新記録を出すまでに味わった故障と“取り残される”苦しみ
posted2021/06/12 11:01
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph by
Kiichi Matsumoto
6月6日に鳥取市で行われた布勢スプリント男子100mで、サニブラウン・ハキームの記録を0秒02更新する9秒95の新記録を出した山縣亮太。3日後の9日のリモート会見では、9秒台までの道のりを「長かったですねぇ」と言って振り返った。
「9秒台は11秒4が自己記録だった中学生の頃から意識していて、13~14年くらいからは本格的に狙っていたので、もうちょっと早く出したかったですね。あと0秒4~5というところまでは高校時代にたどり着いたけど、そこからは山あり谷ありで。10秒00まで行ったがケガもあって……。膝が痛くなった時は、『9秒台のスピードにこの膝が耐えられるのかな?』と思った時もありました。記録自体は3年間かかって0秒05縮められただけだけど、肉体や技術の変化だけではなく、考え方などの内面の変化もあったので、やっと出たという気持ちとともに感慨深いものがあります」
「追い風2mでもいいから9秒台を出したい」
布勢スプリント決勝のランニングタイマーは9秒97で止まった。その後、追い風2mと9秒95の正式タイムが表示された。その瞬間を山縣は、「追い風2mでもいいから9秒台を出したいと思っていたので、9秒97でも嬉しかった。それが日本記録になったので2倍嬉しかった感じです」と振り返っていた。
それは見ている側も同じで、「やっと出してくれた」という感慨と安堵感があった。
1998年に伊東浩司が10秒00を出した後、朝原宣治と末續慎吾が10秒02、10秒03と迫りながらも届かなかった9秒台。4×100mリレーが決勝の常連となり、08年北京五輪では銅メダルを獲得しながらも、個人は少し足踏みをしていた。
そこに新たな風を吹かせたのが山縣だった。12年織田記念で日本歴代5位(当時)の10秒08を出すと、ロンドン五輪の予選では10秒07の自己新で準決勝進出と勝負強さを見せた。さらに翌13年4月の織田記念では高3の桐生祥秀が10秒01を出したことで、山縣以外の選手たちも刺激され、9秒台への挑戦は本格化した。それが16年リオデジャネイロ五輪4×100mリレーの銀メダル獲得にもつながったのだ。