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引退を伝えると親友・細貝萌は泣いた…イランなど7カ国でプレーした赤星貴文が激動の半生を語る【妻とはポーランドで出会う】
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2021/06/10 11:01
浦和レッズ時代からの親友、赤星貴文(左)と細貝萌
妻とはポーランド時代に出会った
「How are you? と挨拶して、返事がきても次の言葉が出ないって最初はそんな感じでしたよ。電子辞書とにらめっこしながら会話していったら、選手の友達もできてきて、知り合いも増えてきて、向こうに渡って3年くらい経って苦労しなくなった感じですね」
妻とはこのポーランド時代に出会っている。日本から子供たちのサッカーチームが欧州に遠征した際の通訳アシスタントを務めていた。意気投合した2人は結婚して、どの国に行くのも一緒。家族であり、一蓮托生の同志となる。
海外では時折、給料の遅配が生じたものの、「最終的には全部もらえています」。代理人をつけていない分、交渉も自分でやらなければならなかった。プレーするだけでなく、文化に馴染み、土地に馴染み、人々に馴染む。新しい場所に適応するには「馴染む」ことが大事だった。
「新しい国に行けば、自分という存在を誰も知らないわけです。イチから自分の価値をつくっていくのが面白い。だって俺、浦和のときは自分の実力が足らないって認めちゃっていましたから。もっとやれたのに、って今なら思います。海外に出たら、別に(実力が足りないなどと)認めなくていいって思いました。いいプレーを見せることでしか価値は出せない。価値を出したヤツには文句を言えないし、自分がそれを出したら文句を言われない。それって楽しいじゃないですか」
うまくいかなかったら、次やればいいだけのこと
自分で自分の価値をつくる。
うまくいかなかったら、次やればいいだけのこと。悔いることなんてない。どんな環境にあろうともアジャストして赤星貴文の価値をつくっていけばいい。曲がりなりもそうやって10年近くもプロサッカー選手として堂々と世界を渡り歩いてきた。
約11年ぶりに日本でサッカーをすることになった。将来のJリーグ入りを目指す静岡県社会人リーグ1部、岳南Fモスペリオでの再出発。海外のキャリアについて後輩たちから聞かれることも少なくないという。