ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
【デビュー40年】「こいつは命張ってるな、と」 “本人”が語っていた初代タイガーマスクとD・キッド、小林邦昭の“本当の関係”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2021/04/23 17:02
1981年4月23日に初代タイガーマスクはダイナマイト・キッドとの試合で衝撃のデビューを果たした
手紙には真っ赤な字で『死ね』って書いてあったり
小林は大阪大会の翌週、蔵前国技館での再戦でも再びマスクを引き裂き、遺恨は一気にヒートアップ。それによりテレビの視聴率も急上昇し、ついに25%を超えた。
「あのマスク剥ぎのあとは大変でしたよ。街を歩けば、犯罪者を見るような目でジロジロ見られるし、実家にも生卵が投げ込まれたりする嫌がらせがあった。僕のところには全国から不幸の手紙みたいなのが届いて、真っ赤な字で『死ね』って書いてあったり。カミソリを仕込んだ手紙もあって、封を開けたときに親指をザックリ切ってしまって、その傷跡はいまだに残ってますよ。でも、そういう手紙が大量に届いたとき、内心『やった!』と思いましたね。俺はこれぐらい、ヒールとして日本中のファンを本気にさせたんだなって。そうじゃなきゃ、あんな手紙なんて来ないですからね。あのとき、淡々といい試合をしたとしても、たくさんいるタイガーマスクの相手のひとりでしかなかった。あそこでインパクトを残せなかったら、『小林邦昭』というレスラーは、それで終わりだったと思います」
佐山は格闘技色の強い闘いを求めていたはず
この禁断のマスク剥ぎによって、小林はアンチヒーローとして大ブレイク。それと同時に、タイガーマスクもまた小林との抗争によって、これまでとは違う新たな魅力を見せ始めた。
「僕との抗争が始まるまで、タイガーマスクはメキシコのマスクマンとの対戦が多かったんだよね。そうなると、どうしても飛んだり跳ねたりのルチャ・リブレの試合になる。でも佐山は本来、格闘技色の強いシビアな闘いを求めていたはずだから、それは本意じゃなかったと思う。だから、若手の頃から新日本のストロングスタイルでやり合っていた僕っていうのは、佐山にとっても燃えられる相手だったんじゃないかな」