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「この表紙は放映できません」タブー視された私の本 なぜ日本人は “スーパーの肉”しか見たくないのか 

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繁延あづさ

繁延あづさAzusa Shigenobu

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photograph byAzusa Shigenobu

posted2021/02/24 11:00

「この表紙は放映できません」タブー視された私の本 なぜ日本人は “スーパーの肉”しか見たくないのか<Number Web> photograph by Azusa Shigenobu

著者が出会った犬と猟をする男。仕事は「猿回し」だという

“見たくないもの”とされるのは、やはり冒頭から触れている人間の“暴力”と“殺す”という行為との直結だろう。人間社会で“悪”とされる筆頭にあたる行為。しかし、それ無しには人間の食べる“肉”にはなり得ない。どうやっても矛盾が生じる構図になってしまう。これでは、人間社会の道徳的“善悪”に絡めとられて、“見たくない”と感じ、“見ないように”してきたことになってしまう。最初から見えなかったわけじゃない。人間は長い歴史の中で、知恵を駆使して“見えないように”する文化や社会を整備してきた。そして私たちは、そうした事の始まりを知らないまま、歴史の中で受け継がれたものを踏襲するように生きている。“見えないように”はどんどん進行し、メディアの自主規制もそこに加担し、“見たくないもの”が多くの人にとって“見えないもの”になっていく。食べるために、動物を人為的に殺すという事実は何ひとつ変わっていないのに。

 3年前、当時小6だった長男が鶏を飼い始めた。ペットではなく家畜だという。育てて、卵を採り、2年ほどで絞めて食べる、というサイクルがわが家の暮らしに加わった。猪肉生活は送っていたものの、鶏はスーパーで買ってきていたから、はからずも今度は家畜の肉の由来を知る機会になった。

 ここ数年で私は変わった、らしい。夫に言われて気づいたが、確かに料理への熱量が全然違ってる。はじめて狩猟同行した日の帰り道、呪文のように頭の中で繰り返していた“絶対おいしく食べてやる”という気持ち。あれは私の中で続いている。家畜だから、野生肉だから、ということはない。そこに命があることを感じるからだ。

 人間にとって“見えなくなる”ということは、その存在を認識しなくなることでもあると思う。そこに確かな命があるのに、認識しなくなる。いま社会はその階段を登っているんじゃないだろうか。

「かすり傷ぐらい負ってもらってもいい」

 そう思って表紙にこの写真を掲げたのは、そこに確かにある命が“見えないもの”になっていくことへの、私なりの抗いだった。 

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