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「この表紙は放映できません」タブー視された私の本 なぜ日本人は “スーパーの肉”しか見たくないのか
text by
繁延あづさAzusa Shigenobu
photograph byAzusa Shigenobu
posted2021/02/24 11:00
著者が出会った犬と猟をする男。仕事は「猿回し」だという
現代を生きる私たち人間は、殺した肉しか食べられない。動物の肉を食べている私たちの日常は、“殺す”行為から切り離すことはできない。けれど人はそれを“見たくないもの”と位置付けてきた。だからこそ、多くの人が見ないで済む仕掛けがあり、スーパーの肉は動物の死を連想させないピカピカのトレーにのせられ陳列されているわけだ。そういう意味では、拙著はその見ないで済むようにされているものを、わざわざ掲げた本ということになる。
なぜ“見たくないもの”なのだろう。考えるに、ひとつには“死への近さ”があると思う。猪や鹿を解体していると気づくが、同じ哺乳類だけに人間に構造がとても似ている。理科の教科書にある人体模型とほぼ同じ。だからその死体は人間の死体を想像させる。そして、それは生きている自分とも同じなのだと思う。私は台所作業をこう書いた。
<台所で肉を切り分けていると、自分の構造を知るだけでなく、自分自身が解体されていくのを想像することがある。それは自分の死後のイメージなので、実際には見ることができないし、そもそも解体される可能性も普通はない。けれど、自分と同じような肉体に触れていると、あくまでフィクションであると認識しながらも、自分の死体がおぼろげに脳裏に浮かんできたりする。そして、自分もそのうちに死ぬんだという死の確実さを感じる。
死は怖い、誰だってそうだろう。遠ざけたいことの筆頭だ。しかし一方で、死から目をそらすことができない自分も確かにいる。誰もが死に向かって生きている。死というものが混沌としてわからないことが、死の怖さを増大させる。(P47)>
“絶対おいしく食べてやる”
人は死を忘れながら生きている。けれど、その内実、心の動きは複雑なんじゃないだろうか。人の心は死を忘れようと努めながらも、一方で、いつかは行き着く死を知ろうとも働きかけてしまう。両方の心情がせめぎあい、心がざわつく。だから人は“見たくないもの”と過剰に反応してしまうのではないか。
もうひとつ。