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聞く耳は持たず、ただ引っ張るのみ…吉田義人が「明治史上最高の主将」になるまで【同期“幻のキャプテン”の告白】
posted2021/05/01 17:01
text by
藤島大Dai Fujishima
photograph by
Masato Daito
宿敵・早稲田との因縁の対決を制して、2年ぶりの大学日本一。「明治史上最高の主将」と称されるそのキャプテンシーは、果たしていかなるものだったのか。同期の戦友が激動の1年を回想する。
初出:「Sports Graphic Number」2021年2月4日発売号〈明治大学「その男、絶対につき」~1990年・吉田義人~ /肩書などはすべて当時〉
急にきつい仕事になった。ことに冷える午後には。スポーツ新聞の担当記者はいつか体に変調をきたすと覚悟した。
1990年度の明治大学ラグビー部。
東京都世田谷区八幡山の黒い土のグラウンド。練習が終わらない。午後1時、あるいは2時。そのころに始まるトレーニングは日没まで続いた。みんな、いつ授業へ通っていたのか。それは別のお話。
長時間の厳しい練習は好敵手の早稲田、慶應のいわば「定番」であった。楕円球の俊秀これでもかと集う明治は比べればずいぶん短く、八幡山の帰りには明るいうちに喫茶店でくつろげた。
合宿所の玄関を背に新主将は言い切った
あのシーズン。様変わりした。
春はましだった。まあ脚が棒になるくらい。秋が訪れ、しだいに寒さが増す。すーっと透明な鼻水を垂らして耐えた。ラグビー人気に従い、いつも3、4人はいた各社の取材者は肩を寄せて立ち続けた。競争しているのに同士のようだった。
誰を待つのか。キャプテンだ。
吉田義人。すでに日本代表のエース級のWTBであった。背番号は絶対に「11」。左の太ももには絶対に「青色のサポーター」。個人鍛錬を欠かさぬためにグラウンドを去るのは絶対に最後だ。ときにNHKの夜のニュースの始まるころ、ようやく話を聞けた。
あれは春先の某日。合宿所の玄関を背に新主将は言い切った。
「僕らが高校日本代表に選ばれたのは努力したからですよ。それが大学に入ると安心して練習しなくなり、早稲田や慶應の無名選手に抜かれちゃう。明治が早慶より練習したら絶対に日本一になれる」
謙虚とも傲慢とも違った。水たまりがあったらまたぐ。そんな調子の優勝宣言だった。2年後には世界選抜の一員としてオールブラックスからトライを奪う男は、学生生活の最後の日々、みずからの発言を実践して学生王者となった。
1991年1月6日。国立競技場。全国大学選手権決勝。対早稲田。16-13。年末の早明戦は24-24のドローだったので決着をつけた。わずか3点差、そこに数百時間の努力は凝縮した。吉田義人、そして、その孤高を孤独とさせなかった仲間の勝利だった。
「そんなやつがキャプテンになってどうなるのかなあ」
東京・高田馬場。駅からさして遠くない小さな道の古びたビル、細い階段を昇ったら、でっかい笑顔がそこにあった。