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「大男が郵便局に現れた!」新丸子に伝わるジャイアント馬場“巨人伝説” 浪人期に出会っていた驚きの人物とは
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph byMoritsuna Kimura/AFLO
posted2021/01/31 06:01
巨人軍を自由契約になった後、合宿所があった新丸子でそのまま浪人期を過ごしたという馬場。その近くにあったのが「不二拳斗倶楽部」だった
この地でプロ野球に挫折した馬場は、郷里の新潟県三条市に帰る道を選ばず、プロレスラーに転身することを決意する。当時、力道山道場(プロレスセンター)は日本橋の人形町(東京都中央区)にあったため、馬場は新丸子から東横線で渋谷に出て、都電にて人形町に通いつつ地獄のプロレス修行に励んでいたという。地下鉄日比谷線の全線(中目黒〜北千住)開通は4年後のことだ。
プロレス転向当初は初給料までの金欠に悩まされたという馬場。練習後の帰り道、人形町から都電で渋谷まで出たところで電車賃が尽き、東横線に乗ることができず、渋谷から新丸子まで歩いて帰宅したこともあったそうだ。
自由が丘から坂道を上り下りし、田園調布に出て、田園コロシアム〜多摩川園遊園地を通り過ぎると多摩川にぶつかり、一気に目の前の景観が広がる。橋の上から見下ろす多摩川河川敷には、右を向けば青春時代を過ごした巨人軍グラウンド、左を向けば巨人軍の合宿所が嫌でも目に入る。歩行者用の道幅がえらく狭く、歩きづらいことでも有名だった旧丸子橋を、背を丸めてトボトボと歩きつつ新丸子への帰路を急いでいた馬場の心中やいかに……。
余談となるが、この丸子橋。馬場とほぼ同時に力道山門下生となったアントニオ猪木が、引退するまで、お決まりのランニングコースとして(世田谷区野毛の新日本プロレス道場から多摩川下流へ〜丸子橋を渡り川崎市側コースで上流へ〜二子橋を渡り再び東京側に出て道場に帰還)使用していたことでも知られている。
芸能界転身も噂になったが……
馬場のプロレス転向直前、昭和35年4月1日に創刊された東京スポーツでは、記念すべき創刊号にて「巨人軍を呪う大男、馬場元投手〜プロレス転向の噂さも……(原文ママ)」の見出しとともに、浪人中の馬場のインタビュー記事を掲載している。この時、力道山はブラジル遠征中で日本を留守に。そしてブラジルから17歳の猪木青年を連れ帰ってくるわけなのだが、10日後の4月11日に両雄のプロレス入門が同時発表されている。
この時点で馬場にはプロレスと同時にボクシング転向、芸能界転身の噂まであったのだが、馬場は「もうスポーツは沢山」と否定し、「歌ならちょっとは歌える」と、むしろ芸能界入りのほうに色気を見せている。プロレスからもボクシングからも誘いがあったことは認めつつ、「噂はデマ」と否定しているのだ。
プロレスのほうは、時期的にすでに内定済みで、芸能界への色気も「力道山帰国を待っての発表」というシナリオありきの“煙幕”だったフシも感じられるのだが、気になるのはボクシング転向の噂のほうだ。