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【狙うセンバツ制覇】東海大菅生・若林監督が貫く“昭和な指導”「選手に好かれたいと思ったことは、一度もない」 

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上原伸一

上原伸一Shinichi Uehara

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posted2021/01/17 17:02

【狙うセンバツ制覇】東海大菅生・若林監督が貫く“昭和な指導”「選手に好かれたいと思ったことは、一度もない」<Number Web> photograph by Shinichi Uehara

東海大菅生を率いる若林弘泰監督。秋季大会を制し、春のセンバツ出場が確実視されている

 その後は3年生で右ヒジを痛め、実質5シーズンで首都リーグ通算14勝4敗も、大学時代はコンディションが万全ではなかった。社会人野球の日立製作所に進んでからも右肩などのケガに苦しみ、中日時代も最初の2年間は故障に泣かされた。1997年までのNPB在籍6年間で、一軍通算成績は17試合登板、1勝1敗である。

 プロでは実績を残せなかったが、最高峰のレベルを肌で感じたのは財産になっている。

「プロのレベルを知っているかいないかは、幕末の時に世界を見た大久保利通と、見なかった西郷隆盛の違いくらいあると思います」

 若林は社会科(地理・歴史)の先生らしくこう例える。

会社員も経験、再び燃えた野球の情熱

 遠回りをして監督になった。高校野球の指導者になり、東海大菅生高の監督に就任したのは42歳の時だ。現役引退後は星野監督が紹介してくれた運送会社などで5年間、会社員生活を送っていた。野球への情熱が再燃したのは、岐阜県の学校で指導していた中・高の先輩の姿を見た時だ。

「本当にやりたかったのはこれだったと思ったんです」

 当時37歳。すでに家庭もあり、生活も安定していたが、教員免許を取得するために名城大学に入学する。2年間通い、東海大時代の恩師・岩井監督の推薦で東海大菅生高に教諭として着任した。2007年春のことである。

 現在のように、プロとアマ両方の研修会を計3日間受講すれば、学生野球資格が回復されるようになったのは2013年から。若林が高校野球で指導するには2年間、教壇に立たなければならなかった。その間は付属の東海大菅生中学の軟式野球部を教えていたが、「この2年間があってよかった」と振り返る。

「学校の先生の業務がこれほど多岐にわたるとは思いませんでした。はじめは教材研究だけでも大変でしたね。もしいきなり二足のわらじを履いたら、とても回らなかった。教育の現場に身を置いて、学校があっての野球部ということもよくわかりました」

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