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箱根駅伝、前代未聞の“替え玉事件”とは?「誰も知らない日大ランナーが3区でごぼう抜き…」 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/01/01 11:04

箱根駅伝、前代未聞の“替え玉事件”とは?「誰も知らない日大ランナーが3区でごぼう抜き…」<Number Web> photograph by Getty Images

1930年ごろの人力車夫(資料写真)

新聞配達も牛乳配達も……学生はバイト禁止

 このような動きのなかで体協は1921年、競技者資格を規定する。そこでは競技者が「普通競技者」「競技指導者」「準職業競技者」「職業競技者」に分けられ、準職業競技者は《職業上自ら競技の練習に利用し得る者を云う 例えば車夫、郵便配達夫、牛乳配達夫、魚屋挽子等の如し》とし、《競技指導者及準職業競技者は特に本会に於て認定したる場合に限り之を許す》とされた。

 しかし、学生の側は、これでもまだ生ぬるいと感じたのだろう。1922年1月の箱根駅伝の主将会議では、早大主将の河野一郎(のちの衆院議員)が「新聞や牛乳の配達をして夜学に通う者は、昼間働いて収入を得ているのだからプロだ」と、勤労学生を排除する爆弾動議を提出する。これを受けて行なわれた投票の結果、河野の動議が支持され、ついに翌23年から夜間の学生は出場できないことになってしまう。そればかりか、夜学ではない学生に対しても、新聞配達や牛乳配達といったバイトが禁じられたという。

 体協は、先の規定が世論の納得を得られなかったため、1922年3月、競技会を国内外で区別し、国内大会は第1部(アマチュア)と第2部(準職業競技者)に分け、国際競技会は第1部参加者に限ると決定する。

「人力車夫をオリンピックから排除せよ」

 学生の労働者に対するエリート意識は、現代の私たちの想像以上に高かったようだ。それがひとつの頂点に達したのが、1924年に早稲田・慶応・明治の3大学をはじめとする13校が体協脱退を決議した「13校問題」である。

 これはもともと、官立大出身者でほぼ占められた体協人事への不満から、3大学の競走部が体協に組織改造を求めたことに端を発する。そこでの要求には、この年のパリオリンピックのマラソン代表に選ばれた中央大学夜間部の学生・田代菊之助の排除問題も含まれた。車夫でもあった田代は、同年3月の体協の常務委員会ではアマチュア資格なしと決定されたにもかかわらず、それを覆して代表に選ばれていた。

 このあと、同年秋に開催された明治神宮競技大会を13校がボイコット。これを受けて体協は、学生の要求を受け入れる形で組織改造を行なわざるをえなかった。前後して田代は決定どおりパリオリンピックに出場したが、レース中、20キロ付近で倒れ、棄権している。

“2年後の”箱根駅伝では人力車夫がアンカーに

 こうして見ていくと、第6回箱根駅伝における「人力車夫事件」は、13校問題の翌年、まだ騒動の余韻が残るなかで起きたことに気づく。

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