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箱根駅伝、前代未聞の“替え玉事件”とは?「誰も知らない日大ランナーが3区でごぼう抜き…」 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/01/01 11:04

箱根駅伝、前代未聞の“替え玉事件”とは?「誰も知らない日大ランナーが3区でごぼう抜き…」<Number Web> photograph by Getty Images

1930年ごろの人力車夫(資料写真)

 明治・大正期にあって、野球やテニスなど多くの競技をリードしたのは富裕・有閑階級の学生である。そのなかにあって例外的に学外にも開かれていたのが、マラソンや長距離競走だった。それだけに、日本においてアマチュア問題はもっぱら長距離走をめぐって取り沙汰された。そこでは学生と労働者が対立し、とりわけ焦点となったのが人力車夫であった。

 オリンピックは1916(大正5)年のベルリン大会が第一次世界大戦のため中止となったが、戦争が終わって1920年にはアントワープで開催される。このときのマラソン日本代表には、選考レースで4位までに入った金栗四三(当時、独逸学協会中学に在職)、三浦弥平(早稲田大学)、茂木善作(東京高師)、八島健三(小樽中学)が選ばれた。

 この選考レースでは、5位の選手までが前回のオリンピック記録を上回った。しかし、当時のマラソン代表には出場の人数制限はなかったにもかかわらず、5位に入った阪元有蔵という選手は代表から外された。それというのも、阪元が元帥・海軍大将の東郷平八郎のお抱え車夫だったからだ。結局、彼は、同大会の日本選手団主将で大日本体育協会の幹事でもあった野口源三郎から眼病を理由に辞退してくれるよう申し入れを受け、このときの野口の態度が立派だったので引き下がったという。

マラソン大会「1位~5位まで人力車夫が独占したのに」

 じつは、アントワープの代表選考会にあたり、体協の出した出場条件には《学生たり青年会員たるを問わず品行方正にして脚力を用うるを業とせざるもの》(原文では旧仮名遣い、漢字以外はカタカナ。以下に引用する規定文も同様)とあり、暗に人力車夫は除外されていた。

 アントワープオリンピック後の1920年11月に行なわれた日本オリムピック大会(第8回日本選手権)のマラソンでも、1位から5位までを車夫が占めたため、アマチュア規定にもとづき失格とされ、6位の後藤長一(明大)が優勝者となった。

 車夫組合も、こうした職業差別ととれる処置に抗議した。それとともに「日本体育競技会」を設立して体協に対抗し、実力のある車夫を大学・専門学校の夜間部に入れて、学生の肩書きを持たせる手段を取る。

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