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【箱根駅伝】秩父での幼少時代が「山男」を生んだ? 1990年“天下の険”制覇の「山の大東」復活劇
posted2021/01/02 06:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
Nanae Suzuki
初出:Sports Graphic Number PLUS 2014 「箱根駅伝 名勝負をもういちど。」(肩書などすべて当時)
いつからか、箱根駅伝では「山の大東」と呼ばれるようになった。その起源は、74年から4年連続で5区区間賞を獲得した大久保初男。75年には区間新記録の走りで大東大に総合初優勝をもたらし、翌年も連覇。大久保には「山男」というニックネームがプレゼントされた。
そして「山の大東」が復活するのは90年のこと。1年生の奈良修が区間賞の走りを見せて往路優勝。下りの6区でも埼玉・秩父農工出身の島嵜責之がただひとり59分台の走りを見せ、山を完全制覇。そのまま逃げ切って14年ぶりの総合優勝を果たした。この奈良、島嵜のコンビは翌年も着実な走けで山を制圧、まさに「天下の険」を制した大東大が2度目の連覇を達成した。
山の人材を育成したのは青葉昌幸監督。
「山上りはスピードだけでなく、苦しい練習に耐えられる忍耐力、勝ちたいという闘争心も試されます。下りに関しては、初優勝の時に下りを担当した金田(五郎)も島嵜と同じ秩父出身で、実は私の後輩(笑)。小さい時から秩父の山の中を駆け回り、結果、クロスカントリー的な効果を生んでいたのかもしれません」
その後、大東大は優勝からは遠ざかっているが、名門復活に向け調子は上向き。
「もう一度、優勝するためには山を攻略できる選手の育成が不可欠ですね」と語る奈良監督。「山の大東」復活に期待したい。
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