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戦力外通告で引退・ヤクルト上田剛史が語る、ポスト青木の重圧、続く故障…「僕のことを忘れないで」

posted2020/12/31 17:05

 
戦力外通告で引退・ヤクルト上田剛史が語る、ポスト青木の重圧、続く故障…「僕のことを忘れないで」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

上田剛史(左)は戦力外通告を受け、引退の道を選んだ。ヤクルト一筋、14年のプロ野球人生を語った

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長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

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JIJI PRESS

「野球を断つということは、僕にとってとても勇気のいることで、その勇気はずっと持てなかったんです。だから、めちゃくちゃ迷いました。トライアウト前日まで、考えに考え抜きました……」

 引退決意までの経緯を尋ねると、上田剛史はそう切り出した。

「トライアウトは受けるつもりでした。でも、目標が曖昧なままで練習を続けることに限界を感じていたのも事実でした。そうした中で、“早く次の道に進んだ方がいいのかな?”という思いにもなりました。その結果、トライアウトを受けることはせず、野球を辞めるという決断に至りました」

『ポスト青木』と呼ばれるのは荷が重かった

 2006(平成18)年高校生ドラフト3巡目でヤクルト入りした。プロ入り当初はなかなか一軍出場の機会がなかったものの、プロ3年目となる09年に初めて一軍登録されると、少しずつ頭角を現していった。11年限りで不動のレギュラーだった青木宣親が海を渡ると、「ポスト青木」の最有力候補として期待された。

「元々、“青木さんと同じことをしよう”とは思っていなかったけど、“今年こそレギュラーになれるチャンスだ”というプレッシャーはありました。でも、正直、『ポスト青木』と呼ばれるのは荷が重かったです。そんなときに力になってくれたのが、当時現役だった宮本(慎也)さんでした」

 首脳陣、マスコミ、そしてファンからの期待の大きさは痛感していた。しかし、その期待に応えるには、当時の上田はまだ若すぎた。そんなときに、チームリーダーの宮本に呼ばれ、こんな言葉をかけられたという。

「お前に求められているのは、決して青木の穴を埋めることじゃない。青木みたいに3割打って、ホームランを20本打つことを、誰もお前に期待していない。いいか、お前がやるべきことは自慢の守備力と足を生かしたプレーをすることだけだ。決して、青木と同じことをしなくていいんだ」

【次ページ】 しかし、フェンス激突で肩を痛め

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上田剛史
東京ヤクルトスワローズ

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