ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
日本ハム広報が明かす「育成ドラフト」 チーム第一号、来季が最終年の“エビちゃん”に本音を聞くと…
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byHokkaido Nippon-Ham Fighters
posted2020/11/30 11:40
ファイターズとしても初の育成契約選手である海老原一佳。来季は契約最終年となる3年目を迎える
支配下を勝ち取った樋口、舞い戻った高濱
今シーズン、育成ドラフト指名選手で初めて1年目の樋口龍之介選手が支配下選手の座を勝ち取った。2014年ドラフト7位で入団した高濱祐仁選手が育成選手契約となりながらも、支配下へと舞い戻った。内野手2人が、狭き門を突破していった。
育成選手はファームの試合出場は可能だが、一軍出場するには支配下選手として登録される必要がある。樋口、高濱の2選手は即一軍軍へ昇格して出場機会を得ていた。戦力として、登用されたのである。
正直、焦りはないのだろうか――。
海老原選手は誰とも比べることなく、一点だけを見据えていた。
「2人とはポジションが違ったので、何か意識したりとかはないです。自分がやるだけなので」
育成選手の当事者以外は、分からない感覚である。海老原選手の愚直な思いを知り、これまでの固定観念を完全に覆してもらったのである。
「ドラフト外」だった栗山監督
ここで話の方向性を、転じる。
育成選手制度の導入当初は、懐疑的だった。支配下選手よりも圧倒的に低い金銭条件で契約を交わし、プロの門をたたいてくる。優先度が高い支配下選手とはスタートラインも違う。出場機会など、すべてに厳しい環境下でプレーして夢を追う。そこから、何人がサクセスストーリーを紡いでいくことができるのか――。そのパーセンテージ、可能性は極めて低いだろうと考えていた。
ただ制度が醸成されていくにつれ、頭角を現す選手が登場してきた。前述のような主力、スター選手も生まれてきたのである。少しずつ見方が変化し、ファイターズの樋口選手を目の当たりにし、海老原選手のような志に触れると、肯定へと傾いていった。
かつて、育成選手制度の源流とされる「ドラフト外」という制度があった。それによりドラフトでは指名されず、入団テストなどを経て、球団とアマチュア選手が直接交渉した上で「ドラフト外」としてプロ入りすることが可能だった。
海老原選手の高校の先輩である栗山英樹監督は1983年に「ドラフト外」で、ヤクルトスワローズへと入団した。当時を「ダメで元々だった。それでもどうしても野球で、そこ一本で勝負してみたかった」と回想する。育成選手制度を、好意的に捉えている。
「選手を獲得する、プロへ入ってくる選手たちの幅が広がったというのは間違いない。可能性が広がった」