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「あの年のカープ木村拓也は“リストラ部屋”を志願する気持ちだった?」広島→巨人トレードのウラ側
text by
清武英利Hidetoshi Kiyotake
photograph byKYODO
posted2020/11/14 17:03
95年から06年までカープで活躍した木村拓也。06年シーズン途中にトレードで巨人へ
彼が所属する広島カープは前年の最下位に懲りて、新監督のマーティ・ブラウンに再建を託していた。1975年に指揮を執ったジョー・ルーツ以来の外国人監督である。ブラウンは3年計画を掲げ、地元出身のルーキー・梵英心や東出輝裕ら若手を起用し始めていた。
そのために一軍から外された1人が木村だった。34歳になっていた。
木村は173センチと小兵だが、ドラフト外で入団した日本ハムから移籍し、11年の間、ユーティリティープレーヤーとして活躍している。オールスター戦やアテネ五輪にも出場したものの、この年は開幕から二軍である。スポーツ紙は「監督の構想から外れた」と常套句を使った。
ライバル選手たちのけがや不調をじっと待つ手もあったのだろうが、木村はそうはしなかった。「まだ働けるから、他の球団に出してくれ」と球団本部長だった鈴木に掛け合ったのである。
木村は朴訥とした口調に矜持を隠した男で、「上原浩治が雑草と言うんだったら、俺は岩にへばりついた苔ですかね」と私に話したことがある。巨人のエースだった上原は、無名の高校時代からメジャーへと飛躍し、「雑草魂」を口にしていた。それなら、自分は「苔魂」で頑張るしかないと、上原への羨望を込めて言うのだった。
「使われないまま年を重ねていくのが耐えられない」
鈴木清明から、巨人の球団代表を務める私のところに電話があったのは、夏めいてきて、2年目の交流戦も後半に差し掛かったころだった。
「木村拓也のことなんですが、若手が伸びてきて、ブラウン監督のカープには居場所がなくなりつつあるんですよ」
と鈴木は切り出した。木村が私の母校(宮崎南高)の後輩だったから、私は引き込まれた。
「拓也も移籍を希望しています。後輩にもう一花咲かせてあげてくれませんか」
私は若手1人を交換要員として提案し、鈴木はすんなりとそれを受け入れた。「けたぐりのようなトレードですね」と巨人監督の原辰徳には茶化されたが、それは巨人に一方的に有利な選手交換で、木村を出してやろう、という鈴木の強い気持ちがなかったら、あれほど簡単にまとまらなかった。
当時の私は、11年間、巨人の背番号8を背負った仁志敏久から、木村と同じような申し出を受けていた。その年のオフに、仁志を横浜ベイスターズに送り出したので、鈴木の苦渋がわかるような気がした。仁志は「監督の方針もわかるが、使われないまま年を重ねていくのが耐えられない」と話していた。
私が頑固な仁志を嫌いではなかったように、鈴木も木村に思い入れを抱いていたようだった。それはかなり後になって知ったことだが。