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「あの年のカープ木村拓也は“リストラ部屋”を志願する気持ちだった?」広島→巨人トレードのウラ側
text by
清武英利Hidetoshi Kiyotake
photograph byKYODO
posted2020/11/14 17:03
95年から06年までカープで活躍した木村拓也。06年シーズン途中にトレードで巨人へ
そんなリストラの結末もあるのか
(中略)木村もその年が最後のシーズンになった。彼は2008年には自己最高打率2割9分3厘を記録するなどして、巨人のリーグ3連覇の立役者の1人となった。そして、引退と同時に一軍内野守備走塁コーチに就いた。
その翌年の4月2日のことである。開場2年目のマツダスタジアムで、広島対巨人戦が始まる直前だった。巨人のコーチとしてノックバットを手にしていた木村が突然、グラウンドに崩れ落ちた。クモ膜下出血だった。それを見ていた緒方や鈴木、そして私も何もできなかった。
夏ごろになって、カープの選手ロッカールーム入り口に、横30センチ、縦20センチほどの銅板プレートが取り付けられた。元が発案したのだが、記者発表はしなかった。そこにはカープのユニホーム姿の写真が焼き込まれている。はにかむような木村の笑顔の横にこう刻まれていた。
〈木村拓也
広島東洋カープ在籍
1995~2006(11年間)
投手以外の全ポジションで活躍
最後まで闘う勇気と闘志。
あなたの笑顔を
私たちは忘れない。〉
そのプレートを、コーチとなった緒方が触れて出て行く。鈴木はその姿を見かけるたびに、彼らの寡黙な友情を感じた。
だいぶ経ってから、2009年オフに木村をカープのコーチにして戻す計画のあったことを私は知った。巨人のコーチに先に決まったので、鈴木はしばらく見守ることにしていたのだという。
そんなリストラの結末もあるのか、と私は思った。
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