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ヤクルトの「東京音頭」はロッテの応援歌だった? フライパンから“ビニール傘”へ、歌が結んだ人と時代
text by
大石始Hajime Oishi
photograph byHideki Sugiyama
posted2020/11/03 17:00
「東京音頭」はヤクルトの応援歌として親しまれ、球場を盛り上げてきた。この歌が辿ってきた歴史は長い
スワローズの応援団の間で「東京音頭」が歌われるようになったのは、創立29年目で初の日本一を飾った昭和53年(1978年)頃からと言われている。岡田はその理由を「まあ俺は江戸っ子でしょう。お祭りなんかじゃいつもあれがかかるわけさ。それで取り入れたわけさ」(『キネマ旬報』1994年8月号)と話している。
なお、相手チームの投手がマウンドを去る際、スワローズの応援団は終戦の年に発売された戦時歌謡「ラバウル小唄」を合唱するのが習わしとなっていたが、蝋山さちこの『プロ野球 陰の軍団』(初心の会)によると、これも岡田の発案だったという。「東京音頭」ともども、戦前生まれの岡田らしい選曲といえる。
「東京音頭」は、なぜスワローズで定着したのか
ところで、オリオンズでは一時期のものに終わった「東京音頭」は、なぜスワローズで定着したのだろうか。それはオリオンズが東京という拠点から離れたこともあるが、楽器を使っていなかったオリオンズ応援団に対し、スワローズの応援団が導入当初からトランペットを用いていたことが重要だったのだろう。
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トランペットの音色は「東京音頭」が持つ高揚感を増幅させ、スタンド席の熱狂を煽った。YouTubeには昭和53年(1978年)にスワローズが初の日本一を飾った阪急ブレーブス戦の映像がアップされているが、最後のイニングとなる9回表には「東京音頭」の凄まじい大合唱が鳴り響いている。そこで合唱をリードするのは、トランペットのけたたましいメロディーである。
なお、スワローズの応援に生涯を費やした岡田は平成14年(2002年)7月に死去。告別式には応援団も駆けつけ、「東京音頭」で見送られたという。
「東京音頭」に刻まれた祝賀ムードと政情不安
ここで「東京音頭」の歴史にも少しだけ踏み込んでみたい。
この歌には「丸の内音頭」という原曲がある。こちらのレコードが発売されたのは昭和7年(1932年)、昭和金融恐慌の真っただ中である。不況を吹き飛ばすため、東京・丸の内~有楽町の旦那衆は、日比谷公園を舞台とする盆踊り大会を企画する。
その際に作詞・西条八十、作曲・中山晋平、歌・藤本二三吉という布陣で作られたのが「丸の内音頭」だった。この盆踊り大会は百貨店の先駆け的存在だった白木屋がデザインした水玉模様の浴衣が売り出されたことなどもあって、当時大きな盛り上がりを見せたという。
「丸の内音頭」の評判を受けて、昭和8年(1933年)には一部の歌詞を変えた「東京音頭」が小唄勝太郎と三島一声によって新たに吹き込まれた。ちょうどその前年には東京市が近隣の5郡82町村を編入し、人口550万人を超える大都市となった。東京では祝賀ムードが蔓延すると同時に、満州国が建国されるなど社会全体が揺れ動いていた時期にあたる。
巨大都市の誕生と政情不安を背景としながら、「東京音頭」は日本各地で爆発的なブームを巻き起こすことになった。