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ヤクルトの「東京音頭」はロッテの応援歌だった? フライパンから“ビニール傘”へ、歌が結んだ人と時代
text by
大石始Hajime Oishi
photograph byHideki Sugiyama
posted2020/11/03 17:00
「東京音頭」はヤクルトの応援歌として親しまれ、球場を盛り上げてきた。この歌が辿ってきた歴史は長い
「東京音頭」は東京の居住者であれば誰もが知っている有名曲だ。そして「東京を代表するチームは読売ジャイアンツではなく、私たち東京オリオンズなのだ」という強い意識がチームにも応援団のなかにもあったのではないだろうか。東京オリオンズを名乗る以上、東京を象徴する歌を応援に用いるのは当然のことだったはずだ。
ロッテオリオンズに。そして…
昭和44年(1969年)には大映の業績悪化を受けてオリオンズはロッテと業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズに改名。昭和45年(1970年)には東京スタジアムで10年ぶりのリーグ優勝を飾り、「東京音頭」が南千住の夜に鳴り響いた。
だが、翌年になると永田は球団経営から撤退、昭和47年(1972年)には東京スタジアムも閉鎖してしまう。以降、オリオンズの応援団が「東京音頭」を合唱することはなかった。「東京音頭」がオリオンズの応援曲として親しまれていたのは、同チームが「東京」にこだわり続けた一時期だけのことだったのだ。
「ツバメ軍団」団長がビニール傘を持ち込んだ
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ヤクルトスワローズの応援に「東京音頭」を持ち込んだ人物ははっきりしている。私設応援団「ツバメ軍団」の団長、岡田正泰である。岡田は昭和6年(1931年)、東京生まれ。看板製作会社を家業とし、宇野光雄が監督を務めていた1950年代末から国鉄スワローズの応援を始めたという人物だ。
岡田はスワローズの応援にさまざまなスタイルを持ち込んだ。最初はフライパンに「必勝」という文字を書き金槌の柄で叩いていたというが、やがて家にあったビニール傘を持ち込むようになった。
『キネマ旬報』1994年8月号の取材記事において岡田は「あれは家庭に誰でも持ってるもので応援しようと思って始めたわけだよ」と話しているが、誰もがすぐに参加できる応援スタイルは、スタンド席に特別な熱気を生み出すことにもなった。そこには「試合に負けても、応援で発散できればいい。楽しいことがモットーだ」(週刊『ポスト』1983年4月号)という岡田の信念があった。