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涙の始球式「心の170kmは出せた」野球芸人ティモンディが語る上甲野球100カ条と池袋のマクドナルド
text by
谷川良介Ryosuke Tanikawa
photograph byKiichi Matsumoto
posted2020/10/26 11:04
収録後にもかかわらず、いつものボリュームで取材に応じてくれたティモンディの2人。始球式の涙を表現した高岸(右)に相方・前田は苦笑い
甲子園初出場初優勝の「SAIBI」
彼らの母校である済美高校は、共学化された2002年以降、運動部の躍進でたちまち全国区になったマンモス校である。中でも野球部は名将・上甲正典監督(故人)のもと、創部から3年目のセンバツで鵜久森淳志(元ヤクルト他)や2年生エース福井優也(楽天)らを擁して甲子園初出場初優勝という偉業を達成。その年の夏も甲子園決勝まで駒を進めている。
当時、滋賀県に住んでいた小学生の高岸には「SAIBI」の文字が輝いて見えた。
「学校が長期休みに入る度にもともと住んでいた愛媛に帰っていたんですが、甲子園の時は街中が空っぽになっていました。愛媛県民は甲子園に行っているか、家のテレビや街の大モニターの前で済美を応援。日本野球発祥の地でもある松山ということもあって応援の熱がすごいんですよ。だから済美はかっこいい存在。愛媛に戻ることにしました」(高岸)
一方の前田も神奈川県からの越境入学。ボケの高岸ばかりが注目されるが、前田も座間ボーイズでエースピッチャーとして活躍し、高岸同様に複数の名門校から誘いを受けた実力の持ち主だった。
「心技体」ではなく「体心技」
高岸と前田が当時掲げていた目標は、甲子園に行くことではなく「甲子園で優勝すること」。それに一番近いと感じたのが済美高校だった。ひたすら野球に打ち込んだ高校3年間の寮生活では、上甲監督の教え「上甲野球100カ条」にもある「体心技」に重きを置いた。まずは体を作り、そこに心が宿ると、技になる。だから練習は効率化を目指しながらも「量」をこなした。思い出に残る練習を挙げればキリがないが、1kgの重りを両腕両足につけて、鉄の棒で“ゴルフボール”を打つトスバッティングは相当キツかったという(1日1000球!)。
「『俺が甲子園連れてくぞ』という同級生ばかりでしたし、監督さんもそういう意気込みで入学してこい、と。だから僕も含めて最初はみんな生意気なんですよ。厳しい練習もたくさんありましたが、監督さんは人間として成長できるように本気でぶつかってきてくれました。45歳も離れた方が本気で向き合ってくれることは、なかなかないじゃないですか。2度も全国優勝を成し遂げている監督さんなので言葉の説得力も違いました」(前田)
娯楽の時間はごくわずか。中学生の頃に買ったKREVAやミスチルのアルバムはもちろん最新曲に更新されることなく、全盛期のAKBも知らないまま思春期を過ごした。
だが、2008年入学の彼らが甲子園にたどり着いたのは高1夏のみ。高3夏は高岸が控え投手、前田は一塁コーチとして県予選決勝まで勝ち進んだが、上甲監督の母校でもある宇和島東高校に1999年以来の甲子園出場を許している。2010年7月28日の記録を見ると、共に出場した跡は残っていなかった。