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望月将悟と創始者が語るTJAR哲学。
次回は新ルールで「山小屋補給ナシ」。
text by
千葉弓子Yumiko Chiba
photograph bySho Fujimaki
posted2020/08/14 08:00
2018年のTJARで「無補給」で完走した望月将悟。他の参加者の倍近い重さのザックを担いだ。
初回は会社の夏休みが制限時間だった。
TJARは、1人の山男の夢から生まれたレースだ。岩瀬幹生、現在65歳。
学生時代から登山にのめり込んでいた創始者の岩瀬は、エンジニアとして会社に勤めてからも厳しいクライミングを続けていた。40代半ばになった頃、「北アルプス、中央アルプス、南アルプスを繋いで日本縦断がしてみたい」という夢を抱く。
問題は日数だった。会社の夏休みは8日間しかない。なんとか8日間で走り切れるようにと、5年かけてアルプスで下見を行い、最短ルートを導き出す。
そして2002年、仲間6名とともに開催したのが「第1回トランスジャパンアルプスレース」だ。このとき、富山から静岡の大浜海岸にゴールできたのは岩瀬1人だけだった。
「スタートからバラバラに進んで、野営地で顔を合わせるという感じでした。当時はルールもアバウトで、決めていたのは、宿泊に山小屋を使わないこと、自分の足だけですべて歩くこと。途中、家族が応援に駆けつけた選手もいましたが、当時はスマートフォンもGPSもなかったので、選手の居場所がわからず、2日間待ちぼうけということもありましたね」
この時、岩瀬たちは山岳パートの食料すべてを担いでいた。冬山ではそれが当たり前だったから、とくに意識もしなかったという。アルファ米をたくさんザックに詰め込み、水で戻しながら行動食とした。
「ファストパッキングやトレイルラン用の軽いザックがその頃はまだ売っていなかったので、自分は子ども用の1泊向けザックを使いました」
18年間で、ずいぶん大きくなった。
その後、2年おきにTJARを開催する。毎年にしなったのは、「夏休みに北海道の山々を縦走したり、マッターホルンに登ったり、ほかの山行もしたかったから」と岩瀬は笑う。
その頃といまとの違いは、選手と運営者という役割分担が生まれたことだ。初期は選手自らが運営も行っていたが、回を重ねるごとに参加希望者が増え、山の経験が十分でない選手も見受けられるようになったことから、実行委員会を立ち上げて参加基準を設けた。現在はTJAR完走者を中心に9名のメンバーが委員を担い、岩瀬も顧問として参加している。
18年間で、TJARもレースを取り巻く環境も大きく変化してきたのだ。