オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(14)>
ロンドン五輪 サッカー・徳永悠平
posted2020/08/02 09:00

韓国との3位決定戦に敗れ、味方選手が倒れ込む中、ピッチを後にする徳永悠平。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
JMPA
Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
あの日、自分たちには他に何かできることがあったのだろうか。徳永悠平には今もそう問い続けるゲームがある。
《あの韓国戦、自分たちはどうすればよかったんだろう。もっと別の戦い方をすべきだったのかとも考えますし、あれしかなかったとも思います。難しかったなあ……。何度考えても答えは出ないんです》
徳永はプロサッカー選手として550を超える公式戦のピッチに立ってきた。多くの場合、勝敗にはある程度の明確な要因があり、それを整理して自分を納得させることさえできれば、あとは忘却して前に進めばよかった。ただあのゲームに関してはなぜか、何年経っても同じ思考をぐるぐる巡らせるより他ないのだ。
2012年8月9日。ロンドン五輪のサッカー日本代表はウェールズの首都・カーディフにいた。翌日にはその地でメダルをかけた韓国との3位決定戦を控えていた。
試合会場となるミレニアム・スタジアムでボールを蹴りながら、徳永はある感慨に浸っていた。5つ以上も年下の選手たちと駆け抜けてきた軌跡についてである。
大会前はほとんど期待されていなかったチームが、日本サッカーにとって44年ぶりとなるメダルをかけた舞台に辿り着いた。
それは徳永が思い描いていた通りの急激な上昇曲線であり、特別な立場で加わった自分が、このチームに何かをもたらすことができた証のようにも思えた。
関塚監督からの打診を最初は辞退しようと。
「オーバーエイジ枠として五輪代表に加わってもらいたい」と打診を受けたのは、およそ2カ月前のことだった。五輪代表監督の関塚隆から電話があった。「とにかく会って話がしたいんだ」と関塚は言った。
徳永は断るべきだと直感した。
《自分よりふさわしい人がいると思ったんです。僕はA代表に残れるかどうか、ぎりぎりの選手でした。オーバーエイジというのは日本のトップであり、圧倒的な力を持った選手であるべきだと思ったんです》
関塚とは早稲田大学ア式蹴球部の先輩後輩でもあり、腹蔵のない間柄だった。だから徳永は率直に辞退したいと伝えた。
だが、関塚は引き下がらなかった。
「どうしてもお前が必要なんだ」
ロンドンに臨む23歳以下の代表はサイドバックに弱点があった。本大会のみ年齢制限なく招集できるオーバーエイジ枠の本命として長友佑都を考えていたが、所属クラブの事情から招集が不可能となっていた。そうした事情は徳永も知っていたが、それでも自分がふさわしいとは思えなかった。なぜ関塚はここまで自分を必要とするのか。
「頼む! 力を貸してくれ!」