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<オリンピック4位という人生(10)>
梶山義彦「境界線に落ちた涙」
posted2020/05/31 11:30

三菱自動車川崎の外野手・梶山義彦はそのバッティングを買われ、日本打線の7番を担った。
text by

鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Kyodo News
韓国との3位決定戦でアマ屈指の強打者は、静かにある一球を待っていた。
Number989号から連載スタートした『オリンピック4位という人生』を特別に掲載します!
やり残しがあるわけではない。後悔ではないのだが、ただただ無性に悔しい。
梶山義彦にはそういう一球がある。
「もう20年前ですから覚えていないこともかなりあるんですが、あの打席、あの一球はものすごく自分の中に残っています」
2000年9月27日、シドニーオリンピック3位決定戦。史上初めてプロとアマの混成チームとなった日本代表はメダルをかけて、オールプロの韓国と激突した。2回表1アウト一、三塁、日本に先制のチャンスが訪れた。中3日で力投するエース松坂大輔を援護するためにもどうしても点が欲しい。打席には7番・梶山。
野球人生の正念場だという直感があった。マウンドには具・臺晟(ク・デソン)がいた。韓国プロ野球で50勝以上を挙げているサウスポーだ。それをアマチュアの自分が打つ。
プロかアマか。振り返れば、この日本代表は常にそうした境界線とも戦っていた。同じユニホームを着て、同じグラウンドに立つ男たちを隔てる見えない線……。
絞っていたスライダーが来た。
初球。プロの一流投手の圧倒的なストレートを見た梶山はひとつの決断をした。
「僕はいつも真っすぐを待って変化球がきたら対応するというスタイルでした。でもどちらかに絞らないと打てないと感じた。だからスライダー一本に絞ったんです」
それは大きな賭けだったが、それがあの瞬間の自分にできる最大限のことだった。
「そしたら、本当にスライダーがきたんです。真ん中高めのあまいところに……」
一瞬、身を固くした梶山がバットを振り出す。いつもの自分を捨て、プロもアマもないひとりのバッターが白球に向かう。
その瞬間、境界線は消えていた。
1996年、国際野球連盟がオリンピックへのプロ選手参加を認めたとき、梶山には内心、複雑な思いがあった。
「正直、当時はアマチュアだけで出たいという気持ちでした。オリンピックに向けてアマの選手で準備をしてきましたから」
その決定のあと、オリンピックで使用されるバットはそれまでの金属から木製バットへと変更された。アマの祭典は世界最高のエンターテイメントへ。商業主義の波がついに野球にも押し寄せたのだ。