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甲子園史に残らない徳島商の優勝。
幻の夏を経験した“元選士”の言葉。
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKyodo News
posted2020/05/21 11:00
幻の甲子園を制した徳島商の主将・須本憲一は、のちに母校を率いて「甲子園」に戻ってきた。写真は準優勝旗を受け取る板東英二(1958年)。
試合開始の合図はラッパ。
地方大会を勝ち抜いたのは北海中(北海高)、仙台一中(仙台一高)、水戸商、京王商(専大付)、松本商(松商学園)、敦賀商(敦賀高)、一宮中(一宮高)、平安中(龍谷大平安)、市岡中(市岡高)、滝川中(滝川高)、海草中(向陽高)、広島商、徳島商、福岡工、大分商、台北工の16校。外地から唯一の出場となった台北工は、相当な危険を伴ったことだろう。ミッドウエー海戦があったのがこの年の6月で、すでに航海の安全は担保できない戦局になっていた。
整列ではまず皇居の方角に一礼。試合開始や終了は吹奏楽用のラッパ(軍隊用ではない)の音で告げた。理由は「サイレンでは周辺住民が空襲警報と誤認するから」だった。「ストライク」や「ボール」はまだ使えたが、ユニホームのローマ字表記は漢字に変更させられた。スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ」「戦い抜かう大東亜戦」など戦意高揚のための横断幕が掲げられた。
選手ではなく選士。続行不能のけが以外では交代は認められず、投球をよけることも許されなかった。選士に求められたのは敢闘精神と突撃精神だったからだ。
優勝は徳島商。須本憲一と蔦文也。
幻の優勝校は徳島商。京王商を延長14回、2対1で振り切ると、水戸商を1対0、海草中も1対0と投手戦を制した。下馬評の高かった平安中との決勝戦は一転して打撃戦に。延長11回、8対7で栄冠を手にした。すべて1点差。決勝戦はサヨナラ押し出しという幕切れだった。
当時の主将兼遊撃手だった須本憲一は、卒業後に明治大へ進み、東急フライヤーズにも在籍した。須本は母校の監督を任されるが、それにより東急のチームメートであり、徳島商の先輩だった蔦文也は、山間部の池田高の監督になる。
須本監督は板東英二を擁した1958年の第40回大会で準優勝。惜しくも逃した県勢悲願の初優勝を、その24年後の1982年の第64回大会で、蔦率いる池田の「やまびこ打線」が達成する。2人の歩んだ人生を思えば、何とも因縁深い。