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こんな時代、いつも心に松井秀喜を。
2冊の著書に滲むゴジラ的楽天主義。

posted2020/05/17 11:40

 
こんな時代、いつも心に松井秀喜を。2冊の著書に滲むゴジラ的楽天主義。<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

ジャイアンツのユニフォームを着た松井秀喜をもう一度みられる日は来るのだろうか。

text by

中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

PROFILE

photograph by

Kazuaki Nishiyama

 松井秀喜と国見比呂。

 21年前、『週刊少年サンデー』1999年3月17日号の表紙を、あだち充が描く人気野球漫画『H2』の主人公とともに飾ったのは、当時プロ7年目、24歳のゴジラ松井である。

 前年の'98年シーズンの背番号55は、34本塁打、100打点で自身初のホームラン王を含む二冠獲得。この'99年は同僚の高橋由伸と打撃タイトル争いを繰り広げ、初の40本台クリアとなる42発を放つことになる。

 名実ともに球界を代表する打者へと駆け上がっていた時期だが、正直に書くと、当時の松井秀喜は、平成5年のプロデビューながら、発言や風貌にどことなく「昭和」の雰囲気を感じたのも事実だ。

 振り返ると、'90年代後半は野球界のイチローやサッカー界の中田英寿といった、これまでのスポーツ選手像を覆す平成の新世代アスリートが出現していた。

 彼らのときに尖った言動やファッション、新しい個性的な生き方は、若者たちから大きな注目を集めた。例えば『Number』1000号掲載の過去表紙登場回数を見ても、「1位イチロー32回、3位中田英寿21回」とは対照的に松井はトップ10圏外である。いわば中田やイチローは世紀末の時代の象徴だったが、松井秀喜は巨人の象徴だった。

松井のような存在は二度と出ない。

 “ゴジラ”という昭和風ニックネームで、黙々と連続試合出場を続け、ナイター中継が日本中から見られていた時代に巨人の4番打者を務めた男。長嶋茂雄監督との「4番1000日計画」やオフの契約更改でおもちゃのバズーカ砲までぶっ放すマスコミに対するサービス精神も含め、とにかく古き良き「王道」を歩んできたように思う。

 甲子園のスターから巨人のドラフト1位を経て、ミスターのもとで不動の4番打者へ……という昭和の野球少年たちが死にたいくらいに憧れた古すぎて新しいど真ん中の王道ストーリー。

 背番号55がプロ初本塁打を放った'93年5月2日の巨人vs.ヤクルト戦は視聴率32.2%、9回裏に弾丸ライナーのホームランをかっ飛ばした午後9時5分の瞬間最高視聴率はなんと39.7%だった。

 今となっては信じられないが、松井が本塁打を放つ度に日本テレビはホームランカードを発行していた。しかも、記念アーチとかではなく、1本ごとにだ。そんな異常な期待と注目の中でプレーするプロ野球選手は今後二度と出現しないだろう。

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