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<オリンピック4位という人生(9)>
笠松昭宏「栄光の架橋の影で」 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2020/05/03 09:00

<オリンピック4位という人生(9)>笠松昭宏「栄光の架橋の影で」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

男子団体総合で惜しくもロシアに敗れ、4位となった笠松昭宏。自身「ほぼ完璧」と振り返る演技を見せていた。

ベニヤ板に刻まれた日付。

 だからだろうか。笠松の歩みは他の誰とも違っていた。特定のコーチに師事することもなく、高校から帰るとひとり道場で「採点規則」という本をめくりながら技を覚えていった。

「ひとりで考えながら体操している時間が本当に楽しかったです。小学校のころにビデオで父の演技を見たことがあって、一つ一つの動きに雄大さがあって他の人よりも空間が広く感じられる。同じ技でも他の人とは違って見える。僕もそうなりたくて」

 ひとり、父の残像と向き合う日々。笠松は技が一つできるようになるたび細長いベニヤ板にその日付を記していった。

〈1993・12・26 ユ(床)前方宙返り2回ひねり、1993・12・27 テ(鉄棒)伸身サルト……、1994・1・21 ア(あん馬)把手をはさんだ横向き旋回〉

 板が文字で埋まっていくたび自分の運命に近づいていく気がした。

失意のシドニーの後、手術を決断。

 日体大では体育会の空気に戸惑い、体力筋力をつくることに苦労したが、父譲りの四肢の長さや独学をベースにした奔放な演技は異彩を放っていた。そして同じように金メダリストの塚原光男を父に持つ塚原直也らとともに、シドニー五輪代表となった。

 ロサンゼルス後に下降線をたどり、アトランタでは10位の屈辱にまみれた日本体操界を二世選手が救う――。笠松たちはそうした期待を背負ってシドニーへと向かった。

 そして、0.162点に泣いたのだ。

 終焉のアリーナ。笠松はズキンズキンという肩の疼きを感じながら、次の舞台にどうやってたどり着こうかと考えていた。

「シドニーの1年くらい前から痛かったんです。おそらくですが、つり輪の新しい技をやろうとしていて、それを無理してやったことで負担があったのかなと……」

 どうあっても次の舞台ではメダルを取らなければならない。アメリカでの手術を決断した。骨盤の一部を肩関節に移植し、ボルトで止める。手術は5時間に及んだ。

 ようやく動けるようになったのはひと月後のことだった。腕が肩の高さにさえ上がらない。マイナスからの再スタートだった。

「辛かったですね……。シドニーが終わってから潜在的に力のあった選手がどんどん伸びてきたんです。自分の力を戻さないといけない、周りに追いつかないといけないという思いもありましたから」

【次ページ】 不安を抱えたまま臨んだ選考会。

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