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トルシエが振り返る中村俊輔の一撃。
「日本の運命を変えたゴールだった」
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byAFLO
posted2020/04/18 11:50
1998年11月23日、U-21日本対アルゼンチン。中村俊輔のゴールが、トルシエにある決断をさせた。
「コパは、疲労感しか残らなかった」
――そこがワールドカップに向けてのあなたのプロジェクト――世代を順次統合していくプロセスのスタートであったわけです。
「その通り。目的をひとつずつ達成しながら進めていった。最初の2年間は、U-20のグループ構築に集中できたし、五輪の準備にも集中できた。そして五輪のプロジェクトが、2002年ワールドカップのプロジェクトへと繋がっていった。世代交代の必要に迫られ、新しいチームの構築は不可避だった。
逆にあの時期のA代表は、私のチーム構築のプロジェクトの中には入ってはいなかった。だからコパアメリカは大きな大会だが、ひとつのサイクルの終わりの大会でもあった。時代を作ったチームが終焉を迎える。それがコパだった。去年、日本が参加したコパとはまったく意味合いが違う。あの大会は準備のための有意義な大会で、本物の仕事だった。だが'99年に私の参加したコパは、疲労感しか残らなかった」
ラボラトリーと名付けたプロセス。
――では、あなたが見出した可能性に溢れた若い世代をどう見ていましたか。“ラボラトリー”の中で彼らを着々と変貌させていきましたが。
「まずは守備のコンセプトを浸透させた。守備にはふたつのやり方がある。ボールをケアして守るか、それとも相手をケアして守るかだ。
私は即座にプロジェクトにとりかかった。
ボールの位置に対応しながらも、チームは強固なディシプリンの下に組織されねばならない。与える情報を違うものにしなければならないし、メンタリティを変えていく必要もある。デュエルの場面を練習で作りながら、守備における動き方も変えねばならない。知性が要求される守備だ。相手の動きを予知しながらオフサイドに誘い込む。それらは私の守備に絶対的に必要なことだった。
もうひとつは自分たちでボールをキープすることだ。相手はボールを保持していないのだから、それもまたひとつの守備の形態だ。相手に簡単にボールを与えないことが、私にとって守備の第一の基準だった。
それらすべてを実行する。選手のメンタリティを変えながら、彼らにプロジェクトを完全に理解させる。私のプロジェクトは、日本の若い選手たちには馴染みのないものだっただろう。革命的と言えたかもしれない。フラット3は3人のディフェンダーがマンツーマンで守るのではない。フラット3は組織的な守備であり、ラインの上げ下げをコントロールして自分たちから仕掛ける能動的な守備だ。だから入念なトレーニングとコミュニケーションが求められる。
選手たちが知らなかったこともたくさんあった。彼らへの教育は絶対に必要で、チームがひとつとなってプレーすることを学ぶというのは、時間をかけたトレーニングの過程を経ることでしか身につかない。私はこのプロセスを“ラボラトリー”と名づけた。私のシステムは、選手が自然なスタイルでプレーできるものではないからだ。
微に入り細にわたっての指導が必要だった。ライン間の連携をどうするか、どうすればチームがひとつの生き物になってプレーができるかを説明した。それは11人の選手だけを教えれば済むことではない。彼らだけの連携では不可能だ。
私はオーケストラの指揮者を思い描いた。指揮者はシンフォニーを演奏するために楽団員全員をひとつにする。私も同じで、プレーのコンセプト、プロジェクトのもとにグループの全員をひとつにしようとした。ひとつのプレーのやり方で全員がまとまる。それが4年間にわたるラボラトリーのプロセスだった……」
(以下、第2回へ続く)