今日も世界は走っているBACK NUMBER
33年前、大迫傑よりも速いペースで。
一緒に走って感じた中山竹通の殺気。
posted2020/04/18 11:40
text by
金哲彦Tetsuhiko Kin
photograph by
BUNGEISHUNJU/JMPA
私のナンバーワンは? と聞かれ、すぐ記憶に蘇ったのが1987年福岡国際マラソンで激走した中山竹通(ダイエー)である。
何しろ私自身が同じスタートラインにたち、中山の激走に翻弄されたランナーの1人だったからだ。
1987年12月6日、ソウル五輪の代表選考会のスタートを待つ福岡は朝から冷たい雨が降っていた。当時の記録には気温7.6度、風速5mと記してある。確かに、東京から応援に駆けつけた仲間には申し訳ないほどの悪天候だった。しかし、スタートを待つ私を含めた選手たちは悪天候に怯むどころか、これから始まる「マラソン」という名の真剣勝負に殺気さえ感じ、かつてないほどの異様な緊張感に包まれていた。
当時、マラソン界が置かれていた事情を振り返ると、その理由が分かる。瀬古利彦(エスビー食品)の金メダルが期待された1980年のモスクワ五輪はボイコットで無念の不参加。そして、再びメダルが期待された1984年のロス五輪では、宗猛(旭化成)が4位に食い込んだもののメダルには届かなかった。
そんな中、ロス五輪の年の福岡国際で中山が彗星の如く現れた。
「這ってでも出てこい」
中山は翌年の1985年ワールドカップマラソンで世界歴代3位(当時)となる2時間8分15秒の日本最高記録を樹立。実力世界一と言われた瀬古利彦が最も恐れるライバルとなったのである。
1988年のソウル五輪は、日本マラソン界にとってモスクワで獲れていたはずの金メダルをつかみ取る絶好のチャンスだった。当時「福岡一発勝負」と言われたレースは、現在のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)に相当する。世界の瀬古と新星・中山の直接対決に、マスコミを始め、日本中が固唾を飲んだ。
しかし、瀬古は故障のためスタートラインに立てなかった。中山が「這ってでも出てこい」と発言したのは有名な逸話である。