JリーグPRESSBACK NUMBER
ローランドが語るフットボール愛。
高校時代の挫折とJリーグへの期待。
text by
Number編集部Sports Graphic Number
photograph bySuguru Saito
posted2020/06/26 11:30
フットボールへの熱い思いを語ったローランド。「身の丈なんて、知らなくていい」とJリーガーにエールを送った。
宇佐美と対戦、身の丈を知ってしまった。
――ローランドさんは、いわゆる“プラチナ世代”の1992年生まれですよね。
本当にすごい学年でしたね。宇佐美貴史(ガンバ大阪)選手が17歳でACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出場してゴールを決めたり、宮市亮(ザンクトパウリ)選手がJリーグを経由せずにアーセナルに加入したり。彼らはU-17ワールドカップであのネイマールやフィリペ・コウチーニョがいるブラジル代表と対等以上に渡り合っていたし、もっとさかのぼれば、U-13の世界大会で優勝して世界一になっているんですよ。だから、子どもの頃から思っていたんです。「俺らの世代って、もしかしたら史上最強なんじゃないか」と。
ちなみに宇佐美選手とは1度だけ対戦したことがあるんですが、もう、本当にうますぎて何もさせてもらえなかった。宮市選手とも高校時代に対戦しましたけれど、圧倒的に速すぎて、まるで教習所に1台だけフェラーリが走っている感覚でしたね。
そういう経験を通じて、同世代のトップにいる選手たちとの埋められない差を日々感じていたし、かなり早い段階で“身の丈”を知ってしまったのだと思います。
――サッカー選手としての最後の公式戦となったのが、帝京高校3年時の高校サッカー選手権予選だったと聞きました。
忘れもしない、2010年11月13日ですね。都大会の決勝で駒澤大学高校に負けて、僕のサッカー人生は一度終わりました。
「これ以上ない」と言える努力をしたという自負があったし、これでダメなら、もし人生が3度、4度とあっても絶対にプロにはなれないと思える努力をしました。そういう意味で、最後の試合が終わったあの瞬間は、清々しさと悔しさが入り混じった複雑な感情になりましたね。今でもうまく説明できません。何しろ、ずっと追い続けてきた「プロになる」という夢がかなわないことを実感した瞬間だったわけですから。人生であれ以上の屈辱を味わったことはありません。
裏切られた気持ちになって、あれだけ好きだったサッカーを遠ざけるようになってしまったんですよ。
エネルギーはサッカーで味わった悔しさ。
――その後、なぜホストの道を選択したのはなぜ?
サッカー選手になるという夢はかなわなかったけれど、「逆転したい」という強い気持ちだけはありました。目の前が真っ暗になって「何をしたらいいんだろう」と思った。でも、このままで終わりたくない。絶対に逆転したいという思いだけは強かったんです。
当時のわずかな知識で思い浮かべられる“逆転の方法”は、芸能人になるか、ミュージシャンになるか、水商売を極めるかの3つくらいしかありませんでした。父親が音楽業界の人間なのでミュージシャンになろうと思ったんですが、でもやっぱり、“2世”というレッテルを貼られることはイヤだった。
自分の力で人生を変えるなら、水商売しかない。自然と、歌舞伎町に足が向きました。
――ホストの世界でトップに立つことは、プロサッカー選手になることと同じくらい難しいことだと思います。
僕の場合は、悔しさがエネルギーでした。サッカーでプロになることができなくて、落ち込んで、俺は何やってるんだと自分を責めたこともあります。でも、この業界で頑張って、結果を出して、周りに認められることで自尊心を取り戻すことができた。自分を好きになることができたと思うし、そういう状態になって、初めて「好きなものは好きなままでいたい」と思えるようになったんです。
で、テレビで放送されていたサッカーの試合を観てみたんですよ。やっぱり面白いんですよね。ホストの世界で自分をここまで押し上げてくれたエネルギーは、間違いなくサッカーからもらったものだった。頑張ってよかったなと思います。ホストとして頑張れなかったらたぶん今でもサッカーが嫌いなままだったと思うから。今の自分は自分のことが好きだし、サッカーのことが好き。あそこで人生をあきらめなくてよかったと思いますね。