オリンピック4位という人生BACK NUMBER
柳本晶一は“世界の猫田”に挑んだ。
<オリンピック4位という人生(4)>
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/02/02 11:30
1976年モントリオール五輪。エースセッターの座を奪えず、柳本晶一の出場機会は限られていた。
どん底の柳本を救った監督就任。
おそらく指揮官の目にも選手たちの異変は映っていたはずだ。だが、それでも日本代表のセッターは猫田だった。
0-3。普通ならば勝てる可能性の高かったキューバに完敗した。前回ミュンヘンの王者は4位で大会を去ることになった。柳本はコートの外でゲームセットを迎えた。
そして自身にとって、これがオリンピック最後の試合となった。
29歳という旬で迎えるはずだった次のモスクワ五輪は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するアメリカや西側諸国に同調した日本がボイコットを決めたからだ。
「どうなんかなあ、もうキャパを超えていましたよ。政治が絡んでいますから……。ただただ事実として、もう俺にオリンピックはないんだなあと」
その後、'91年に現役を引退すると、失ったものを探し求めるように、指導者としての旅をはじめたが、'97年、地域リーグから日本リーグ昇格へと導いた日新製鋼バレー部が廃部になった。同年に監督に就任した東洋紡も4年で2度の日本一に輝き黄金期を築いたが、2002年に廃部となった。
バブル崩壊のあおりを受けて実業団スポーツが消滅していく。自分もバレーボールも時代に求められていない気がした。
「俺のバレーボールってなんやったんやろうって力が抜けてしもうて。気がついたらベランダから下を覗き込んでいたり……」
だが、そんな柳本を運命的にコートへと引き戻したのは、やはりオリンピックだった。2002年冬、青天の霹靂。女子日本代表監督のオファーが舞い込んだ。
当時、女子バレーはどん底にいた。
'84年ロサンゼルスの銅を最後にメダルから遠ざかり、2000年シドニー五輪では出場権も逃した。その後の大会でも中国、韓国から1セットも取れず敗れ、その責任から監督、強化委員全員が辞任していた。
柳本の仕事は、少年時代に憧れたあの“東洋の魔女”をふたたびオリンピックの舞台に、表彰台にもどすことだった。
竹下を見抜いた目、研究に生きたノート。
アテネ五輪まで1年半。
柳本がまずやったことは、“21世紀の猫田”を探すことだった。
竹下佳江。当時25歳。
159cmのセッターは低身長を理由にシドニー五輪出場を逃した戦犯として批判され、代表から離れた。その影響でバレーボールも辞め、介護の仕事をしようとハローワークに通っていた。そういう選手を柳本は代表のエースセッターとして呼んだ。
「東京での金メダル以降、女子の代表は実業団主体でずっとやってきましたが、そういう時代遅れをぶっ壊して、どのチームだろうと優秀な選手を選ぶという完全選抜制にしました。それでも『ここからメダルまで10年はかかります』と言いました。協会の幹部からは、好きにしていいが、竹下だけは選ぶなと言われましたよ。みんな竹下の能力がわかっていなかった」
レシーバーがボールを弾いた瞬間、落下点に潜れる。レシーブが短くてもそのミスをカバーし、チームの限界点を120から150まで引き上げることができる。いつも猫田を観察していた柳本には、可視化できない竹下の能力を見抜くことができた。
また専属アナリストをつけて、味方も相手も徹底的に研究するデータバレーを取り入れた。その源になったのがコップ裏への走り書きから始まった30冊に迫るノートだった。
指揮官としてオリンピックへ向かっていく柳本の礎は、あのとき、コートの外で見つけたものばかりだった。
最終予選直前、チームは世界1位の中国と5連戦を組み、全敗した。その消沈の最中、柳本は選手たちを呼んだ。そこで、胃がんと闘い39歳で逝った猫田の話をした。
「病院に猫田さんを見舞いにいったとき、もうお亡くなりになる直前で、幻覚症状も出ていて、話もわからない状態だったんだけど、試合中のサインを出されていた。ベッドで……。俺、涙が出てきた。オリンピックってそういうところなんだ。それぐらい素晴らしいところなんだ」
あの五反田の夜、猫田がくれた言葉はずっと心に残っていた。