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国見史上最も丁寧にノートを書く男、
渡邉大剛の罰走で始まったプロ人生。
 

text by

松本宣昭

松本宣昭Yoshiaki Matsumoto

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photograph byYoshiaki Matsumoto

posted2020/01/23 11:40

国見史上最も丁寧にノートを書く男、渡邉大剛の罰走で始まったプロ人生。<Number Web> photograph by Yoshiaki Matsumoto

国見で生まれた渡邉大剛が、導かれるように小嶺忠敏率いる国見高校へ。その出会いが彼の人生を変えた。

J1昇格の立役者になったが……。

 2007年シーズン、渡邉は右サイドからのキレ味鋭いドリブルを武器に、レギュラーに定着。特にサンフレッチェ広島とのJ1・J2入れ替え戦・第1戦では、次から次に相手を抜き去り、正確無比なクロスで2アシスト。京都のJ1昇格の立役者になった。

 プロ5年目を終えた青年は、もう調子に乗らなかった。選手・スタッフ全員で喜びに浸った年末の納会でのことだ。渡邉は会場外のベンチで夜風に当たりながら、横に座る先輩・倉貫一毅に、頭を垂れて訊ねた。

「サイドアタッカーだけじゃなくて、いろんなプレーができる選手になりたいんです。どう思いますか?」

 倉貫の答えは、シンプルだった。

「ええんちゃう」

 この一言が、大きかった。

環境とチームに合わせて変わり続ける。

「'06年に京都がJ1を戦ったときに、僕と似たタイプのドリブラーが全然通用しなかったんです。前年のJ2ではサイドからどんどん相手を抜いていたのに、です。じゃあ同じタイプの自分が、ドリブルという武器を封じられたときに、どうやって生き残っていけばいいんだろうって、ずっと考えていました。

 一毅さんはプレーヤーとしても、人間的にもすごく尊敬している人です。実際、練習に取り組む姿勢だったり、プロとしての言動だったり、たくさん影響を受けました。そんな一毅さんが賛同して、『ええんちゃう』と言ってくれた。あの言葉がなかったら、もし『自分の武器をとにかく磨けばいいやろ』と言われていたら、もっと早く戦力外になって引退していたかもしれませんね」

 特に'09年に左アキレス腱断裂の大ケガを負ってからは、プレースタイルを大きくモデルチェンジさせた。ドリブラーから、プレーメーカーへ。味方に使われる選手から、味方を使う選手へ。

 '11年に移籍した大宮では、中央の狭いエリアに潜り込んで巧みにパスを引き出し、中盤と最前線をつなぐ「コネクタ」役を担った。'16年から加入した讃岐では、自在にパスを配り、プレースキッカーも任された。

 チームが自分に求めているものは何か、チームを勝たせるために自分ができることは何か。日々、サッカーノートに書きとめながら、考え続けてきた。その結果、J1通算214試合、J2通算183試合に出場することができた。

【次ページ】 「サッカーの見方はだいぶ変わりましたね」

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