「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
ファンタジスタ松井大輔が明かす
南アW杯、駒野&阿部との涙と絆。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/09/02 17:00
38歳ながら横浜FCで欠かせない戦力の松井大輔。谷間の世代のファンタジスタは渋みを増し続けている。
アテネは自身を売り込むための場。
「当時は、(A代表の)MFのほとんどが海外でプレーしているなかで、僕は(A代表に)呼ばれたり呼ばれなかったり。ジョーカーとして(試合の終盤に)出て、何かやれることはあるかもしれないけど、っていうくらいの感覚でした。
でも、上の人たちを追い抜くほどのレベルに、僕はまだ達してなかったんだから仕方がないとも思っていました。代表でポジションを取るためには、海外に行かなければいけない。そこで活躍しないと勝負にならないんだって」
焦りにも似た感情を募らせていた松井は、だからだろうか、2004年アテネ五輪に出場したときも、恐らく他の選手たちとは少々異なる姿勢で臨んでいた。
石川直宏ら、ワールドユースでの屈辱を知る選手たちにとって、アテネ五輪はリベンジの場。しかし、松井は「まったく我関せずでした」。
「まずはグループリーグを突破して、上位へ行きたい。そういう気持ちはみんな出ていたとは思います。でも、僕は自分の性格的にも、特に若いときは自分だけが頼りだったし、周りのそういう、リベンジのような雰囲気は感じていませんでした」
A代表でポジションを奪い取ることの厳しさを思い知らされていた松井にとって、アテネ五輪は自身を売り込むための絶好の場だったのだ。
「僕にとってはステップアップのための舞台でしかなかった。実際、アテネを終えて(2004年夏に)フランスへ行くことになるので、そういう意味ではよかったし、自分としては、“早く海外へ行くためのオリンピック”っていう位置づけでした」
ル・マンで輝くが、代表では……。
2004年、フランスのル・マンに移籍した松井は、1年目から主力として活躍。2008年にはフランスの古豪、サンテティンヌへの移籍を勝ち取るなど、ステップアップも遂げている。とりわけ、ル・マンで出色の働きを見せた2006〜2008年ごろは、松井のキャリアにおける最も華やかなときだったかもしれない。
だが、それでもジーコが築いた序列を崩すのは、簡単ではなかった。
「2005-06シーズンあたりは、確かに調子はよかった。だから、選んでほしいなっていう強い思いはありましたけど……」
でも、と言って、松井は言葉をつなぐ。
「(2006年ワールドカップのメンバーから)落ちた時点で、次は絶対に選ばれたいっていう思いが強くなりました」