「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
ファンタジスタ松井大輔が明かす
南アW杯、駒野&阿部との涙と絆。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/09/02 17:00
38歳ながら横浜FCで欠かせない戦力の松井大輔。谷間の世代のファンタジスタは渋みを増し続けている。
京都で試合に出ることだけを。
「ヤットくんは、パスとか、FKとかの技術もそうだけど、ゲームを読む力がすばらしかった。鹿実のときから、ずっと飄々とやっていましたね」
しかしながら、世代をけん引していたはずの松井は、同世代の精鋭が集まるU-20日本代表にほとんど呼ばれていない。一度国内での練習試合に参加したきりで、2001年ワールドユースや、そのアジア予選にも出場していないのである。
のちに松井は、その当時を振り返り、「あまり試合に出ていない選手もいたから、『オレに合わせろよ!』っていう傲慢さみたいなものがあった」と話していたことがあるが、19、20歳のころの松井は、よくも悪くも自分ありき。もちろん、本音を言えば、「(U-20代表に)入りたいのは入りたかったですけど」、それほど年代別代表に強いこだわりがないのも確かだった。
「そのころは、谷間の世代がどうだとか、ワールドユースで負けた(グループリーグ敗退)とか、自分的にはどうでもいい話で。ただ単に、(頭にあったのは)京都で試合に出るという、そのことだけ。始まったばっかりのプロとしてのキャリアを、しっかりと積み重ねていくことしか考えていませんでした」
その言葉通り、松井は着実にキャリアアップしていく。
A代表、とりあえずは入ったけど。
2002年シーズンには、U-21代表としてアジア大会で銀メダルを獲得すると、京都では天皇杯優勝。にわかに注目を集める新鋭は、2003年に初めてA代表にも選出され、同年フランスで開かれたコンフェデレーションズカップに出場した。
いわば、同世代の先陣を切る形でのA代表入り。だが、「自分のことしか考えていなかった」という松井にしてみれば、「世代がどうとかは関係なく、単純に上の人たちとやるのがすごく楽しかった」のだという。
だがその一方で、22歳の松井にとっては、A代表は厳しい現実を突きつけられる場でもあった。
「とりあえずは入ったけど、(試合に出ても)何にもできないし、代表に選ばれて練習だけやっているという感じでした」
当時のA代表は、黄金世代をはじめ、松井より上の世代の選手層が厚いばかりか、チームを率いていたジーコは、積極的に新戦力を試したり、メンバーを入れ替えたりするタイプの監督ではなかった。メンバーを固定してチームの熟成を図る手法のなかでは、“国内組”の22歳が、既成の序列を崩すのは極めて難しかったのである。