セリエA ダイレクト・レポートBACK NUMBER
“真の漢”デロッシがローマを去る。
熱狂を求め、アルゼンチンへ飛ぶ。
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byGetty Images
posted2019/08/16 08:00
笑顔で「オリンピコ」を去ったデロッシ。“一番地獄に近い場所”といわれるボカの本拠地「ボンボネーラ」に戦いの場所を移す。
DFまでこなし、得点も量産した。
毎年、サッカー選手名鑑のページをめくりながら“万能選手”という表記を目にするが、デロッシほどその呼称が似合う人間はいないのではないか。
本業はタックルを得意とするサイドハーフだが、視野が広いから中盤の底で攻守のタクトを握るレジスタとしても一流だ。2011-12年シーズンにチームがDF不足に陥ると、センターバックも見事にこなして新境地を開いた。少年時代にはFWとトップ下を経験しているから得点感覚も抜群だ。ローマでの通算616試合で63ゴールも奪っている。
サッカーセンスと闘志の塊だった。ローマでの最後の指導者になったベテラン監督ラニエリは、実感を込めて言った。
「ダニエレを欲しがらない監督などいないよ」
笑顔を振りまく兄と睨みを利かせる弟。
ASローマは強豪ではあったが、ユベントスを筆頭とする北イタリアのライバルにいつも最後で競り負けた。デロッシがクラブで獲ったタイトルはコッパイタリア2回('07年、'08年)とイタリア・スーパー杯1回('07年)の3つだけだ。W杯優勝の肩書きと並べるにはいささか寂しい。
在籍した18年の間には、2季前のようにCLベスト4へ躍進した歓喜もあれば、シーズン中に3度も監督が変わって最終節の2節前まで降格圏に近い14位に落ちぶれた年('04-05年)もあった。
もちろん、スクデット争いに敗れ、悔しい思いをしたシーズンは1度や2度ではない。
彼を望んだ欧州の強豪クラブはいくらでもあった。本人さえ望めば選び放題だったにちがいない。だが、彼は兄貴分トッティ同様、地元に留まることを選んだ。
やはりローマのバンディエラとして'17年に引退した王様トッティは才能にあふれ、いつも華に満ち、それでいて下町出身らしく“フランチェ坊”と呼ばれ、町中から愛された。距離感のないロマニスタたちは地元出身の生え抜き選手を家族同様、本当の息子か兄弟のように熱を込めて応援する。
だが、同じ生え抜きでも、デロッシはトッティのように享楽的にはなれなかった。クラブの顔役として天真爛漫の笑顔を振りまく兄貴分の肩越しに、相手へ睨みを利かせるのがデロッシの役目だった。80年代風にいえば、“裏の番長”というやつだ。
クラブがアメリカ人の手に渡って最初の夏、スペイン人監督ルイス・エンリケが来たとき、デロッシは彼をあからさまに余所者扱いした。
閉鎖的で子供じみているなと思ったが、後に見方が変わった。イタリア代表最後の試合になったロシアW杯予選プレーオフで、デロッシは当時の代表監督ベントゥーラに反逆した。ご法度であることは百も承知だった。
デロッシが忠誠を誓っていたのは、指揮官ではなかった。代表とローマというチームそのものにのみ、彼は心身を捧げていたのだ。