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「目から火を出せ」の教えを胸に。
五輪内定第1号、寺内健の“不屈”。
~38歳、飛込み界の不死鳥~

posted2019/08/12 15:00

 
「目から火を出せ」の教えを胸に。五輪内定第1号、寺内健の“不屈”。~38歳、飛込み界の不死鳥~<Number Web> photograph by AFLO

坂井とともに東京五輪内定第1号となった寺内。馬術の杉谷泰造(43)に並ぶ夏季の日本人最多6度目出場となる。

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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AFLO

 日本人史上最多タイとなる6度目の夏季五輪出場を、全競技を通じての内定第1号で決めたのは、飛込み界の不死鳥、38歳の寺内健(ミキハウス)だった。坂井丞(同)と組んで出た世界水泳選手権(韓国・光州)の男子シンクロ板飛込みで7位になり、東京五輪の代表内定条件を2人でクリアした。シンクロ種目での出場は日本人初。「今までで一番の結果を求めていきたい」と語る寺内の目の奥に、チラチラと赤い炎が宿る。

 飛込み部門があるJSS宝塚で、生後半年からベビースイミングに通った。小5までは競泳の選手クラスで泳いでいたが、同クラブで指導する中国出身の馬淵崇英コーチに素質を見いだされ、飛込みに転向。上海で行なわれた中国ナショナルチームとの合同合宿を経て頭角を現し、'94年日本選手権高飛込みを当時の史上最年少である13歳で制した。

2009年に一度は引退したが……。

 抜群の跳躍力を武器に五輪の初舞台を踏んだのは、15歳で参加した'96年アトランタ五輪。高飛込み10位と大健闘した新星への期待は大きく、寺内自身も「次はメダルを」と意気込んでいた。だが、その後は決して順風満帆ではなかった。シドニー五輪7カ月前の'00年2月に左膝を手術。血のにじむようなリハビリから這い上がり、日本勢64年ぶりの5位入賞を果たしたものの、惜しくもメダルには届かない。'04年アテネ五輪、'08年北京五輪も連続出場を果たしたが、表彰台の夢は叶わず、'09年4月に一度は引退を表明した。

 だが、ここで折れないのが寺内の強さだ。既に30歳になっていた'11年、「五輪のメダルを諦められない」と現役復帰を果たすと、'12年ロンドン五輪出場を逃してもなお現役を続行。'16年リオデジャネイロ五輪出場を勝ち取り、東京五輪は通算6度目の大舞台となる。アトランタ五輪のときは身長159cm、体重50kgで、現在は170cm、69kg。この数字が示すように、体力、筋力、思考、環境と、すべての変化を乗り越えながら進化を遂げてきたからこそ今がある。

 飛込みに挑戦し始めた頃、気合いを入れるため「目から火を出せ」との教えを授けてくれた馬淵コーチは今も寺内のそばにいる。ノースプラッシュの飛込みを東京で披露するとき、四半世紀越しの夢の実現が見えてくる。

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