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ボッチャ・廣瀬隆喜が父と泣いた夜。
修造、家族の強く温かな絆に触れる。 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

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photograph byYuki Suenaga

posted2019/07/01 08:00

ボッチャ・廣瀬隆喜が父と泣いた夜。修造、家族の強く温かな絆に触れる。<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

6球ずつ投げ合い、最後に白いジャックボールに少しでも近いボールを置いた方が勝ち。カーリングのような頭脳戦が繰り広げられる。

高校時代、父子で泣きながら会話を。

松岡「ショックでしたよね。脳性麻痺だ、と言われたときは」

喜美江さん「私もショックでしたけど、主人の方がショックを受けてしまって……。でも、親としては生まれた子をとにかくしっかりと育て上げなければならないし、障害もあるのだからしっかりと面倒を見ないといけない。そこで気持ちを切り替えました。父親と相談しながら、できうる限りのフォローをしてあげよう、と」

松岡「幼いころの隆喜さんは、人と自分がどう違っているのかなんて、わかりっこないですよね。でも、成長していく過程でなにか自分は違うぞ、と。そう感じることが増えていったんですか」

廣瀬「確かに四つん這いのときも、手は『グー』でした。あと小っちゃい頃は手すりを親指を使わず、手で挟んで持ったりしていましたね。自分には障害があるんだ、とはうすうす気づいてました」

松岡「もとから車いすだったんですか」

廣瀬「最初は杖をついたりして歩いてました」

喜美江さん「小学校は普通学校に通っていましたし」

松岡「体を動かすのは好きだったんですか」

廣瀬「やりたい気持ちはあったんですけど、普通学校に通っていたのでどうしても健常者にはついていけない。運動会でもハンデをつける感じなんです。50m走でも自分だけは25m地点からスタート。積極的には取り組むことができなかった感じです」

松岡「でも、陸上をやっていたんですね」

廣瀬「中学になってから特別支援学校に進んで、中学3年間はビームライフルという射撃をやりました。陸上は高校からです」

松岡「根本には、健常者にも負けたくないという気持ちがあるんですか」

廣瀬「負けたくないというよりは、やるからには結果を残したい、1位を獲りたいという気持ちでやってました。陸上を始めたときも、ボッチャを始めたときも、やっぱり頂点を獲りたいと」

松岡「パラリンピアンの方たちってみんな、スポーツの壁を乗り越える以前に、さまざまな困難にぶつかってきているじゃないですか。だから人として強いし、本当にすごい、と僕は思うんですけど、隆喜さんが感じた壁はどんなことでしたか。『何で俺が……』って、最初は思ったでしょ」

廣瀬「以前、高校生くらいの時かな、たまたま父親と2人でいたことがあって。どういう経緯でそういう話になったのかは忘れてしまったけれど、父が涙を流しながら僕に、『こういう体の子供にしてしまって申し訳ない』と言ったんです。僕は、『生まれたのは誰のせいでもないし、気にすることはないよ』って答えたんですけど、お互い泣きながらの会話でしたね。

 だけど、この障害が僕にとって大きな壁か、というとそういう意識はなくて、お風呂に入る時には多少の介助は必要ですが、日常生活でほとんど不便を感じることはないんです。周りの助けや車椅子などいろいろなサポートを受けていることもありますが、障害を障害と感じずに暮らせているのが本当のところです」

【次ページ】 「ボールをカーブさせることもできるんですか」

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