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戸塚、菊原、財前、そして中島翔哉。
読売クラブと異才の源流にいる男。
text by
加部究Kiwamu Kabe
photograph byAFLO
posted2019/06/01 12:00
その突破力で異彩を放った与那城ジョージ(中央)。松木安太郎らも在籍した読売クラブらしい、尖った才能だった。
鳥かごの鬼にならないエジムンド。
多くの高体連の先生たちが、ひたすら生徒たちの尻を叩いて走力向上を強化の軸に据えていた頃に、読売クラブでは頭とボールを使い、ピッチ上で輝くために息の抜けない熾烈な競争を続けていた。
与那城は、サンパウロ市内の草サッカー育ちである。ただし1970年には、日系人クラブ「ヤマダ」でセルジオ越後らとともに、同州のアマ選手権でベスト4に進出する立役者となった。
のちに指導者に転身すると、ヴェルディにはブラジル代表歴を持つビスマルクが加入するが、与那城の上手さに心底驚いていたという。
「エジムンド(元ブラジル代表)が移籍してきた時に、久々にジョージさんと同じレベルの選手を見ましたよ。1年間鳥かごをやっても鬼になるのが、せいぜい2回みたいな(笑)。彼らは、あの狭いエリアでも十分なスペースが見えるんでしょうね」(都並)
「ルールは味方にするものだ」
読売クラブで指導歴の1歩目を記した千野徹から、こんなエピソードを聞いたことがある。
「日本ではルールは守るものと教わって来ましたが、読売では味方にするものだという解釈でした。ジョージさんは、試合中に胸で止められるボールを敢えて手で止めるんです。もちろんレフェリーには見えないアングルなんですが、相手が"ハンドだ"と驚いた瞬間に一気にドリブルを加速してしまう」
ライバルの日産自動車を指揮した清水秀彦も、読売戦で最も手を焼いたのが与那城対策だったという。
「ドリブルもパスの長短も自在。奪いに行けば、長い捨てボールを蹴り込んでしまうし、行かなければドリブルで崩される」
実際にアマからプロへの転換期に日産(横浜F・マリノス)が読売(ヴェルディ)に連勝街道を築き始めるのは、与那城が現役を退いてからだった。