オリンピックPRESSBACK NUMBER
大学屈指のランナーは国立大医学生。
卒業後は医者に、しかし未練も……。
text by
別府響(文藝春秋)Hibiki Beppu
photograph byEKIDEN News
posted2019/05/26 17:30
5月19日のセイコーゴールデングランプリ、800mでペースメーカーを務めた山夲悠矢(右)。
昨年の国体まではほぼ無名だった。
そんな山夲だが、昨年の国体入賞までは全国的には全く無名の存在だった。それもそのはずで、山夲は九州の国立大である大分大学の医学部に所属する医学生であり、日本インカレなどの全国大会とはずっと無縁だったからだ。出身の長崎西高校は、九州でも屈指の進学校として知られている。
「高校時代も普通の公立校だったので顧問の先生も陸上未経験で、名前だけという感じでした。もちろんインターハイにも出ていないですし、しっかりした指導を受けたこともなくて。ペーサーとはいえ今回、こんな大きな舞台に立てたのはとても楽しかったですね」
そう語る山夲が陸上競技を始めたのは、小学6年生の時。担任の教諭に勧められて、地元の陸上クラブに通い始めたのがきっかけだったという。とはいえ、当時はあくまで趣味の延長。中学・高校時代もその意識は変わらず、決して“陸上に懸けた”青春時代という感じではなかったという。
2年間の浪人中は、走っていなかった。
一方で、自身の将来像については、比較的早くから具体的に夢を描いていた。
「親が皮膚科で、医師が身近な職業だったこともあって、小さいころから自然と医者を目指すようになっていました。大学進学の時も、とにかく医師になりたいというのが第一にありました。正直、成績は全然だったので2年間浪人して、なんとか大分大に入学しました」
2年間の浪人中は予備校での寮生活。
毎日、1日8時間の勉強を続け、走ることはほとんどしなかったという。そんな経緯もあり、大学では競技を続けるつもりも無かったのだという。
「やっぱり2年間って、すごいブランクなんですよ。しかも僕はインターハイにもいったことがない。そういうレベルの選手が大学で頑張っても高校時代の記録に戻るのが関の山かなと思っていたので……それだったら陸上をやっても中途半端に終わるだけだから、『別の競技に挑戦した方が楽しいかな』と思って、大学では陸上を辞めるつもりだったんです。ただ、たまたま当時の医学部陸上部の先輩に強い選手がいたので『その人たちと一緒にやりたいな』と思って入部しました」