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清原和博と野茂英雄。力と力、
平成屈指の名勝負を振りかえる。 

text by

石田雄太

石田雄太Yuta Ishida

PROFILE

photograph byMakoto Kenmisaki

posted2019/04/21 12:00

清原和博と野茂英雄。力と力、平成屈指の名勝負を振りかえる。<Number Web> photograph by Makoto Kenmisaki

多くの投手にとって清原和博が特別だったように、清原にとっての野茂英雄もまた特別な投手だった。

ストレート勝負を選んだベテランたち。

 山田のシンカー。

 村田のフォーク。

 伝家の宝刀を抜けば一刀両断にできるのに、敢えてそれをせず、若きスラッガーにまっすぐで勝負を挑んだベテランたちは、程なくそれではこの若者に斬られてしまう恐怖を覚えることになる。清原は山田とはプロ3年目まで戦い、1988年限りで山田が引退。村田とは5年間戦い、1990年を終えたところで村田も引退。職人芸を極めたベテランたちにその技術を認めてもらい、勝負を楽しんできた超一流のベテランたちが相次いでグラウンドを去ったとき、清原は大人になることを求められた。若さを売りに、ベテランに挑みかかって食らいつけばよかった若き清原を取り巻く環境は、徐々に変わりつつあったのである。現役では落合、門田に次ぐ1億円プレイヤーとなって、いつしか清原は、台頭してきたパ・リーグの若きエースたちに挑まれる立場となっていた。

「山田さん、兆治さんのときには速い球しか待っていませんでした。もっと変化球を投げてくればいいのに、頑なにまっすぐしか投げてこない。そういう勝負が、楽しくてしょうがなかったんです。でも、最近のピッチャーは何を決め球に使ってくるのかわからんわ、と思うくらい、いろんな球を投げてきますからね。そういうピッチャーとやるときは、三振してたまるかと思って、つい、力が入ってしまいます(苦笑)」

清原の目の前に現れた野茂英雄。

 そんな清原の前に、若き豪腕が現れた。

 それが、野茂英雄だ。

 一つ下の、同じ大阪生まれ。しかし高校時代、清原は野茂の名前を聞いたこともなかった。PL学園で全国制覇することしか考えていなかった高校3年の夏、勝って当たり前、まったく眼中になかった大阪大会の2回戦で野茂の名前は一度だけ、新聞紙上を賑わせている。この年の地方大会初となる完全試合を達成した成城工の2年生ピッチャー――それが野茂だった。府立同士の2回戦で完全試合をしたところで当時の清原が気にするはずもない。しかも成城工は次の3回戦で府立の美原に6-7で敗れ、完全試合を達成した2年生ピッチャーの名前は、清原の記憶に刻まれることはなかった。

 甲子園とは縁遠い、無名のピッチャーは、しかし新日鉄堺でその才能を開花させる。最速で150キロを記録した野茂は、20歳で全日本に選ばれ、ソウルオリンピックに出場することになった。"野茂"は当時、"のも"と読んでもらえず、関係者からも"のしげ"って誰だ、と言われてしまったほど。1988年、オリンピックの直前合宿に参加した野茂は、朴訥とした語り口ではあったが、ニッコリ笑って「オリンピックで何かでっかいことをしてきたいですね」と語っていた。そしてソウルオリンピックで銀メダルを獲得、1989年のドラフト会議で史上最多の8球団から1位入札を受け、近鉄が指名。推定ながら史上初の1億円突破となる、1億2000万円の契約金で、プロの世界に飛び込んできた。清原にとっては、年下では初めての難敵だった。清原は言う。

「だからといって受け身になるつもりはありません。受け身になって打てるほど自分に力がついているとも思っていませんし、よっしゃ、打ったる、という気持ちでいくだけです」

【次ページ】 野茂のプロ初登板が、2人の初対決。

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