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イチローがボストンをざわつかせた日。
「あるべきベースボール」の意味。
posted2019/03/27 16:30
text by
ナガオ勝司Katsushi Nagao
photograph by
Naoya Sanuki
イチローは自ら引退を口にする直前、集まったメディアの数を見て「こんなにいるの?
びっくりするわ」と言った。
日本のスーパースターと、大勢のメディア――。
思い出話をひとつ。
イチローが「メジャー挑戦」を開始した2001年の5月8日、私はボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイパークで、シアトル・マリナーズの取材をすることになった。
当時のレッドソックスには、野茂英雄(当時32歳)と大家友和(同25歳=DeNA二軍投手コーチ)の両投手がいた。2人とも開幕から先発ローテーションに入っていたが、そこにいた理由は、その年ア・リーグ打点王になるブレット・ブーンの独占取材のためだった。
当時は月刊誌をメインに働いていたこともあり、改装前の狭苦しいフェンウェイパークの取材席を確保するのが難しかった。今ならメール1本で済む話だが、あの頃は日本からファックスを送ってもらい、身柄を保証してもらう必要があった。
ようやく割り当てられたのが、「3列目」と呼ばれる最後列の席だ。そこは今で言う「ネット・メディア」やテレビやラジオ関係者、あるいは私のような外国人メディアの席で、1列目=地元メディア、2列目=ビジターチームのメディアという序列のもっとも「下」だった。
レッドソックスは元々メジャー屈指の人気球団で、ローカル・メディアの数も今とは比較にならないほど多かった。おまけにレッドソックスの広報は「イチローと彼を追う日本人メディア来襲」を過小評価していた。当然、フェンウェイパークの取材席はごった返した。
「ボストンでも同じことができるの?」
シアトルの地元メディアと打ち解けていた日本人メディアは多かったが、ボストンでは「外国人」である。その「外国人」たちが追いかける「イチロー」とは何者か?
当時のボストンと言うより、「レッドソックス・ネイション(国家)」などと呼ばれるニューイングランド地方のメディアは、イチローという名の新参者に疑念の目を持っていた。
ずっと後になって分かったことだが、ボストンではドラフト全体1位指名の米国人であろうが、中南米出身の新鋭であろうが、レッドソックス傘下のマイナーで活躍した生え抜きの新人選手であろうが、そこはある意味、公平に扱われる。
つまり、「頑張ってるみたいだけど、ここ(ボストン)でも同じことができるの?」。
そんな視線が、イチローにも向けられていた。