ファイターズ広報、記す。BACK NUMBER
養豚場から届いた便り。剛球一辺倒の
元ファイターズ戦士、第二の人生。
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph byKazumasa Kikuchi
posted2019/01/21 07:30
NPBでは通算8年プレーして、9勝7敗1セーブ、40ホールド。DeNAを自由契約となった2014年には右肩手術も経験した。
子豚を抱っこした写真が。
投球スタイルも、菊地という人間そのものを表していた。140km台後半のストレートを頼みの綱に、とにかく打者へと向かっていった。愚直だった。ちなみにだが、打撃センスは……。筆舌に尽くしがたいが、チーム内でも有名だった。
野球では投手以外の適性は見い出せず、常に気迫あふれる全力投球が最大の強みだった。記者としての私も同じような感情を抱いたが、結果や記録以上にファンのハートを揺さぶる選手だった。
養豚家へと鞍替えした彼から、子豚を抱っこした写真が送られてきた。
故郷、群馬県の榛名山麓、叔父の養豚場で見習いを本格的に始めたのだそうだ。生産→企画・営業→販売の一連を担えるようになることが、目標だという。
銘柄は「上州 勝五郎豚」。飼料等に創意工夫を凝らして養豚業を営む生産者の叔父の名前に、ちなんだ。
現役を引退後、一般社会から、存在を消すような時を経て辿り着いた。
「やりたい仕事はなんなんだろう、と。分からなかったです。それが、何か分かるためにと思っていろいろと働いてみました」
工事現場に倉庫管理の派遣。
多種多様なアルバイトをしながら、自らの将来的な適性を吟味したのだという。電気系統の工事現場、倉庫管理の派遣は肉体を酷使する重労働だった。早朝から倉庫へ行き、トラックから荷降ろし。終えると、その段ボールに梱包された荷物などを倉庫内に整理する。そんな時に「プロ野球選手だった菊地さんですか?」と、声を掛けられたこともあったそうだ。
ゴルフショップの店員など接客業にも、携わったことがある。直近では、母校の上武大でコーチを務めるなど再度、野球に携わる機会にも恵まれていた。そんな数多の時間を経て、出した結論が幼少時からなじみのあった養豚の道だったのだという。
プロ野球選手時代に、身をもって学習したことがある。
「お金を払えば、いいもの、美味しいものは食べることができる。ただ、そのいいものを世の中へ供給する、提供するには、生産している人たちは想像もできないほど苦労、努力をしている。いいものには、ちゃんとしたバックボーンがあると思うんです」