ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
天龍源一郎が最も悩んだときの答え。
50人に嫌われたら、50人に好かれる。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byNaoya Sanuki
posted2019/01/02 17:00
引退から3年を経て、天龍源一郎が記した人生相談は趣深いものだった。
叩かれて「なにクソ」!
その後、全日本は「円満退社」ということとなったが、SWSに移籍すると『週刊プロレス』に「金で動いた」と書かれ、人気絶頂から一転、ファンから激しいバッシングを受けることとなった。
「バッシングを受けたときは、『俺がおまえたちに、何か悪いことしたか?」っていう開き直る思いもあったけど、ファンの人たちが『裏切られた』と思ってしまったのなら、もうそれはそれで仕方がない。でも、俺がそのとき思ったのはね、50人『天龍に裏切られた』って去っていくヤツがいたら、『面白いことやってるな』って、また50人入ってくるヤツもいるってことだよ。世の中、そうなってるんだよ。50人に嫌われたら、新たな50人に好かれるって。それが俺の極論だよ。
もし、あそこで叩かれることがなかったら、もっと調子こいてる俺がいたかもしれない。味がある人間になれてなかったかもしれない。あそこで叩かれて、自分の中で『なにクソ!』っていう気持ちが芽生えたのが良かったのかな」
スタート時から激しい逆風に晒され続けたSWSは、'92年6月にわずか2年で解散。しかし、ここで反骨心に火がついた天龍は、自身の団体WARを率いて“大国”新日本プロレスに乗り込み、長州力や闘魂三銃士らトップどころを総なめ。'94年の1.4東京ドームでは、アントニオ猪木にも勝利し、「馬場、猪木からフォールを奪った唯一の日本人レスラー」の称号を得ることとなるのだ。
家族のおかげで65歳まで現役。
その後は、'98年からフリーとなり、'99年には49歳にしてIWGPヘビー級王座を奪取。50代になってからも、若い選手たちに混じって、第一線で闘い続けた。
しかし、後年は腰部脊柱管狭窄症に悩まされ、2度の手術とリハビリを行うも、かつてのような激しい闘いができる身体に戻ることはついになかった。それでも65歳まで現役が続けられた理由を天龍は「家族がいたからだ」と語る。
「俺が独身だったら、もっと早くリタイヤしていたと思うよ。俺は60歳になってからの5年間は、動かない身体にムチうってやってきたわけだから。極端な話、『いまの天龍じゃ、このギャランティは高すぎるな』って、ファイトマネーを下げられて『コノヤロー』っていう思いがあったけれど、これでも少しは家計の足しになるだろうと、どんなインディーでも出ていく俺がいたからね。
だから、俺が現役を続けたのは家族を養うためであり、それと同時にたいした稼ぎにもなってない俺に対して、ちゃんとリスペクトしてくれる家族がいたから頑張れたっていうのが、正直なところかな。人間、自分のためだけに頑張るのは、どこか限界がある。でも、自分をいちばん身近で支えてくれる家族のためと思えば、不思議と力が出るもんなんだよ」