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天龍源一郎が最も悩んだときの答え。
50人に嫌われたら、50人に好かれる。 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byNaoya Sanuki

posted2019/01/02 17:00

天龍源一郎が最も悩んだときの答え。50人に嫌われたら、50人に好かれる。<Number Web> photograph by Naoya Sanuki

引退から3年を経て、天龍源一郎が記した人生相談は趣深いものだった。

ジャンボ鶴田とのタッグで台頭。

 天龍源一郎は、13歳で大相撲二所ノ関部屋に入門。番付は前頭筆頭まで上り詰めたが、部屋騒動に巻き込まれるかたちで'76年に廃業し、26歳でプロレスに転向した。

 しかし、当初はなかなか芽が出ず、何か浮上のきっかけをつかむべく、プロレスの本場アメリカへの修行を繰り返していた。天龍自身、この時期がレスラー人生でもっとも苦しかったときだったという。

「相撲からプロレスに転向した当初、何をどうしていいかわからなかった。(ジャイアント)馬場さん、(ジャンボ)鶴田選手に次ぐポジションを用意してもらったのに、上手にこなせない自分がいてね。『俺は相撲で勝ち越してきた人間なんだ、プロレスなんて冗談じゃない』って、気持ちの中で相撲に逃げたこともあったけど、毎日コツコツと、自分にへこたれずに続けたことで、なんとかかたちになった。いま振り返ってみると、あの燻ってた5年間が、自分という人間形成にすごく役に立ったと思っているよ」

 '83年からは鶴田との“鶴龍コンビ”で全日本プロレスのメインイベンターとなり、'87年からは天龍革命をスタート。三冠ヘビー級王座を獲得し、「プロレス大賞」では3年連続でMVPを受賞。押しも押されもせぬトップレスラーとなった。

 そんな絶頂期にレスラー人生最大の転機が訪れる。

悩みに悩んでSWSへ移籍決断。

 '90年にメガネスーパーという企業をバックにした新団体SWSから誘いを受け、当時団体内での行き詰まりと、金銭的な評価が得られないことに不満を抱いていた天龍は、全日本からの移籍を決意したのだ。この時が、レスラー人生で最も悩んだときだったと語る。

「メガネスーパーからの誘いが来たあと、悩みに悩んで決断して、馬場さんに退団を申し出たんだけど、なかなかOKの返事がもらえなくてね。メガネスーパーからは『早く返事をください』って急かされたんだけど、2週間ぐらい宙ぶらりんな状態で。

 もしこれで、メガネスーパーから『そんなに時間がかかるなら、この話はなかったことにしてください』って言われて、全日本からも『出ていくなら出ていけ』って言われたら、俺の行き場所はどこにもなくなるなって。夜も寝付けない日々が続きましたよ」

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