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甲子園常連・聖光学院「谷間の世代」。
13年後にクラブ日本一を目指す理由。  

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byGenki Taguchi

posted2018/09/24 09:00

甲子園常連・聖光学院「谷間の世代」。13年後にクラブ日本一を目指す理由。 <Number Web> photograph by Genki Taguchi

全日本クラブ選手権に出場した富士通アイソテックの選手兼任監督、河野勝人。

「死ぬまで思い出しますよ」

 聖光学院時代、河野は主将だった。

 チームは河野が1年生の2004年夏に2度目の甲子園出場を決め、2年生になると4番として甲子園を経験した。しかし、3年生の'06年夏には県大会の3回戦で敗退。その翌年から今年まで、聖光学院は12年連続で夏の甲子園に出場していることから、彼らの代は「谷間の世代」と呼ばれ、自分たちでもそう認識している。

 河野は毎年、夏になると高校時代を思い出すという。甲子園で躍動する後輩たちのプレーを観ながら「幸せだろうなぁ」と心のなかで呟き、少しだけ苦笑いする。

「私も甲子園には出させてもらってはいますけど、やっぱり3年生で出られなかったって言うのが……。死ぬまで思い出しますよ、あの夏の負けとかは」

 あの夏の負けとか――と言った。

「とか」に河野の悔いが集約されているような気がした。高校3年夏の敗戦のショック。その大きさが計り知れなかったことは無論だ。ただ、河野が向き合うべきは敗戦を招いてしまった原因だった。

チームの慢心、主将に消えた余裕。

 この代は河野をはじめ2年生からベンチ入りしている選手が多く、甲子園に出た1学年先輩よりも「力がある」と言われていた。それが、結果的に仇となった。

「どうせ勝てるだろ」

 新チームが発足してから選手たちの慢心が消えない。秋の県大会であっさりと敗退し、シーズンオフにチームの、選手たちの心の弱さを理解し、練習と選手間ミーティングで自分たちを追い込んだことで成長できたと実感したが、年が明けた春の県大会でも敗れた。

 河野自身も主将という立場でありながら、「2年生から4番を打つ自分が結果を出さないと」と、選手一人ひとりに目を向ける余裕がなくなる。「勝たないと」とプレッシャーだけが増大していき、いつしかチームから笑顔が消えた。そして最後の夏、彼らは甲子園の土を踏むことなく高校野球生活を終えた。

 大学でも故障続きで野球への想いを燃焼できなかった河野にとって幸運だったのは、2012年に硬式クラブチームを立ち上げた富士通アイソテックに加入したこと。そしてそこに、高校時代に苦楽をともにした小野裕紀がいたことだった。

【次ページ】 クラブで野球人生を燃焼させたい。

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