サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
南野拓実は3年前と何が変わったか。
「僕らがW杯に出た人を脅かす」
posted2018/09/09 11:30
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph by
JFA/AFLO
本田圭佑がカンボジア代表を指揮することが話題になる今だからこそ、日本代表のカンボジアでの出来事に思いを馳せる。あの試合を最後に、代表から遠ざかっていた選手の記憶とともに――。
2015年11月、日本代表はシンガポールとカンボジアでロシアW杯2次予選を戦った。この連戦は格下との対戦だったが、2010年代で最悪の合宿でもあった。環境があまりに過酷だったからだ。特にカンボジアでは、人工芝グラウンドでの練習や試合を余儀なくされた。
この時期のヨーロッパは寒波に覆われており、ドイツでは氷点下が当たり前。アルプスに近いオーストリアのザルツブルクは、マイナス10度を下回ることもあった。ヨーロッパでプレーする選手は、飛行機で10時間ほどかけて移動して、気温30度以上に加えて高湿度での試合を強いられた。
その結果、多くの選手が身体にダメージを負った。例えば当時ハノーファーに所属していた清武弘嗣は硬いピッチの影響で右足の第五中足骨を骨折。同じく酒井宏樹はドイツへ戻ってから、コンディション不良で計3試合を欠場した。
とりわけ過酷な移動、試合日程だった香川真司も調子を落とした。ドイツに戻って2日後のハンブルガーSV戦では、このシーズン初めてハーフタイムでの交代を命じられた。その後もコンディションが上がらずスタメンから外れ、レギュラーに返り咲くにはそこから4カ月近くを要した。
ザルツブルクから一転高温多湿。
そして、南野拓実も苦しんでいた。
合宿中に練習が公開されたのは3回だけだったが、スタンドから様子を見ていても、明らかに動きが重かった。合宿参加当時は20歳で飛びぬけて若かったものの、若々しい動きを見せられていなかった。ザルツブルクという寒さの厳しい地域から来た南野にとって、高温多湿気象のダメージは大きかった。
合宿参加前まで、所属するザルツブルクでは公式戦19試合出場10ゴール、4アシストを記録するなど活躍していた。しかしこの合宿以降、最初のゴール、アシストを記録するのは翌年2月まで待たなければならなかった。
そして、この東南アジア遠征以降、ロシアW杯まで代表には呼ばれていない。彼の代表キャップは、カンボジア戦で出場したわずか4分の記録とともに止まったままである。